2009年11月13日 (金)

酉の市。09年11月12日

午後2時。母の体調が良いので、酉の市へ出かけた。雨が降りそうで風が冷たい。手早くお詣りを済ませようと、鴬谷から鷲神社へ行くコースを選んだが、王子駅に着くと例年通り下車してしまった。

王子から都電に乗り換え終点三ノ輪へ向かう。電車はレトロな9000形で正面に天皇即位記念の日の丸が飾ってあった。車内照明は暖色光で心地良い。
途中、おばあさんが下車しようとすると、「下りるから止めてあげて。」と、回りの小母さんたちが一斉に声をかけた。荒川線はまだ下町の気風が残っているようだ。

三ノ輪駅から日光街道へ抜ける梅沢梅沢写真館の外装は明るく塗り替えられ、レトロな趣が消えていた。竜泉あたりの軒が傾いた小さな商店も殆ど消え、瀟洒なマンションに建て代わっていた。この辺りも、僅かな間にすっかり変わってしまった。

時間が早いせいで酉の市は混んでいなかった。
風が冷たい。例年なら革ジャンで来るのだが、今日はTシャツにコーデュロイのジャンパーを羽織っただけだ。風邪を引くのではと心配になった。

スムースにお詣りを済ませ、急ぎ足で浅草観音様へ向かった。
花屋敷の辺りで、お爺さんが路傍で「ふるさと」をハーモニカで奏でていた。熟年男女のグループが聞き入っている。この小学唱歌はハーモニカで聞くと、とても心に染み入る。熟年男性が感に堪えないと言った風に拍手した。

母が70代半ばの頃、1度だけ今日と同じコースで酉の市に連れて来たことがある。途中、竜泉で樋口一葉記念館へ寄った。記念館近くに駄菓子屋があり、母と同じ年頃のおばあさんが店先でおでんを売っていた。母と食べたが代金は驚く程に安かった。
翌年行くと、その駄菓子屋は店を閉めていた。

全コース4キロ近くだが、その時の母は疲労も見せず歩いた。
生きている以上当たり前だが、母は生まれてからずーっと、どこかにいた。しかし、死ねばどこにもいなくなる。これは寂しいだけでなく、とても理解出来ない感覚だ。、ハーモニカの「ふるさと」を聞きながらふと思った。

観音様の本堂は改装中でスッポリと覆われていた。線香の香りの中、仕事が巧く行くように祈った。
仲店は真っすぐ歩けないくらい混んでいた。その3分の1は日本人ではない。今、東京で一番国際的なのはこの一角かもしれない。

昔、浅草に住みたいと思ったが今は違う。浅草の個性は失われ、どこにでもある風景に急速に代わっている。

北赤羽には5時少し前に着いた。駅前のライフで鳥の胸肉を買った。イミダゾールジペプチドの疲労回復効果が一般に知られたせいか、最近、数量が減り値上がりしている。5時丁度に帰宅すると、「お帰り。」と、ベットでテレビを見ていた母が明るく声をかけた。

出がけにベランダに干した洗濯物は、冷たい風で乾いていた。

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2009年11月10日 (火)

貧乏は人生を美味しくするスパイス。09年11月10日

Kouyo赤羽自然観察公園の左ミズキと右イヌヤマザクラの紅葉になりかけの葉。
紅葉する前に葉緑素が抜け、ガラス細工のように美しい一瞬がある。

私は紅葉よりこちらが好きだ。

古民家の茅葺き屋根にクマネズミが巣作りしていて、縁側へワラ屑をハラハラと落していた。分厚い茅葺きの中の住まいは暖かく快適だろう。しかし、近く業者が入り駆除される。

緑道公園の木々も色づき始めた。
これから、一雨毎に秋色は濃くなる。

Aki

テレビ画面に「森繁久彌死去」のテロップが入った。彼は母と同じ大正2年生まれだ。
彼の映画は数限りなく見た。直ぐに思い出すのは駅前シリーズと社長シリーズだ。駅前シリーズでは赤羽駅前商店街が舞台になったことがあった。当時、賑わっていたその商店街は人の流れが変わり、今は見る影もなく、空き地だらけの寂しい商店街に変わってしまった。

単発では淡島千景との「夫婦善哉」、二木てるみが巧い子役を演じていた「警察日記」などが良かった。警察日記は終戦直後の会津で撮られた。今、当時の田舎風景を見ると、とても懐かしい。

50年前、日曜夜NHK第一ラジオで始まった「日曜名作座」も良かった。古関裕而の曲も良く、高校生の私は欠かさず、森繁と加藤道子との絶妙なやり取りに聞き入った。日曜名作座は2008年春まで再放送で続いた。

訃報を聞き、渥美清死去の時と同じくらいの寂しさを感じる。共に昭和を代表する役者で、代わる者はいない。森繁が死んだと母に話すと、同じ歳なだけに色々な思いが過ったようだ。その母も先は長くなく、かろうじて踏ん張っている。

母が漫然と服用していた利尿剤ラシックス20mgを止めた。
先日、私のミスで母の1週間分のピルボックスにラシックスを入れ忘れた。しかし、尿量減少も、浮腫みもなく、むしろ元気になったように感じた。
20mg処方は副作用の殆ど心配のない量だが、高齢の母には思わぬ副作用が起きていたのかもしれない。

睡眠導入剤のレンドルミンは完全に止めたが、眠れない夜があったので、今は4分の1錠を偽薬と一緒に飲ませている。この量なら、もうろう、混乱、幻覚など、まったく起きない。
人間の身体の仕組みは不思議だ。脳がしっかりして来ると身体もしっかりして来る。その結果、深夜に起こされる回数が減り、私の体調も良くなった。

今夏の終わりから肺に水が溜まり始め水様のタンが増えた。一昨年も、同じ症状で著しく体力が低下したので厭な予感がした。今回も体調が極度に弱り、このまま寝たっきりを覚悟した。しかし、頭がしっかりした母は、「吐気をしっかりするように。」と言うとよく守ってくれる。
その効果か、体力低下は緩やかになり、今は何とか踏みとどまっている。高齢になると吐ききれない汚れた空気が肺胞に溜まり酸素飽和度を悪くする。それで吸気より吐気を重視した。

食事は色の濃いものを少量出すとよく食べてくれ、色の薄い食べ物は殆ど残す。しっかりした固形物もだめで、ジュウシーなものを好む。それで、白味魚は大根おろしであえると、よく食べる。それでも、おかずを残すので、食後にプリンを食べさせて蛋白質不足を補っている。

そのように小さな工夫を重ねた結果、最近、食事が美味しいと言うことが増えた。それもまた、踏みとどまっている理由の一つかもしれない。
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Binbo_3「貧乏は人生を美味しくするスパイス」

ポチたちは朝寝朝風呂を楽しんでいる。しかし、金持ちになったらこの程度のことでは満足しなくなる。

人生は悪いことと良いことが程よくバランスが取れていると満足度が深まる。

金があり過ぎるとありがたみが無くなり、無さ過ぎても気持ちが荒み良くない。

健康過ぎても、健康の有り難さが分からなくなる。程よく病気をすると、普通の有り難みが分かる。

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2009年11月 8日 (日)

歴史上、いつまでも栄華を保てた国はない。09年11月8日

経済ニュースに、11月始めワシントンでの日米財界人会合で、日本側が首脳を揃えたのに、米国側は格落ちの役員クラスが大半だった、とあった。今は日本は凋落し、中国が主役に躍り出た、との論調だ。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ

今ほどこの言葉が、胸に突き刺さる時代はない。
千年前に世界一の文化と国力を備えていたのは中国だった。当時、日本は世界史に登場しない小国で、先進文化の殆どを中国から学んでいた。しかし、近世になり、地政学的幸運と勤勉努力が功を奏し、ジパンイズナンバーワンとおだてられるまでに繁栄した。

今は中国に繁栄の中心が移変わり始めたが、更に時代が変われば、アフリカの最貧国が、世界の中心に躍り出ることもあるのだろう。歴史上、いつまでも栄華を保てた国はない。

栄華と無縁でも、国民の満足度の高い小国は沢山ある。国民の満足度が高ければ、世界一など目指したりしない。たとえば、ヒマラヤのブータン王国は民主主義ではない貧しい農業国だが、大学まで教育の無料化を実現し、家族制度は保たれ、食料も自給されていて国民の満足度は高い。

世界一とおだてられていた頃、日本人の多くは何となくこそばゆく実感がなかった。
近年、若者たちと話すと、我々の若い頃のような強い上昇志向はない。豊かでなくても程々の生活ができればそれで良い、と考えている。今の私も生活に限定すれば、そのような若者たちと同じに多くを求めない。

本当は、日本人は戦後の高度成長期からバブル期を含め、大昔から一貫して、程々の生活を望む中庸の民族だったようだ。その点、中国やインドは違う。上から下まで強烈な上昇気運が満ちていて、競争や議論をすると我々はクタクタに疲れてしまう。そのようなストレス社会だから、インドでは仏教、中国では孔孟思想が生まれたのかもしれない。

私自身、今の世はストレスがたまる。そのせいか、時折、今までで何時が穏やかだったか振り返ることが多い。
その意味で、昭和30年代は好きな時代だった。頑張りたい者には広くチャンスがあり、普通が好きな人は程々に努力すれば、それなりの生活ができた。終身雇用も人情味も健在で、サラリーマンも上さえ狙わなければ居心地の良い時代だった。だから、一億総中流と呼ばれたのだろう。

しかし、格差社会の今は違う。先日、ブラック企業を特集していたが、凄まじい労働者へのイジメや暴力に驚いた。

ブラック企業は昔からあったが、今より間が抜けたところがあり、社会問題にはならなかった。その頃、友人が横浜の鉄鋼関係のブラック企業の事務職に就職した。まず、配置されたのは工場の現場で、頭上を電磁石に吸い付けられた数トンの鋼板がブルンブルンとたわみながら行き来かい、生きた心地はしなかった。
結局、彼は鋼板の溶接作業に立ち会った時、仮付けの鋼板が倒れて足の臑を削られ、それを契機に辞職した。

その会社は千人以上を募集し、残るのは百人程で、今で言うブラック企業だったと、彼は話していた。しかし、小綺麗な社宅に福利厚生も充実していて、安月給でもなかった。今の範疇では、その会社はブラック企業ではない。

Haha今日の散歩で、色々な人と会った。
桜並木では、大型犬の小次郎君と会った。彼は失明しているが、母の杖に付けた鐘の音を良く知っている。それで、遠くから私たちが近づくのを知って、待っていてくれた。

赤羽自然観察公園では、Tちゃんとお母さんに会った。彼女は木の幹が吸い上げる音を聞こうと聴診器を持って来ていた。水音はミズキが一番よく聞こえる。私も、直接耳を押し当てて聞くと、ドクドクと美味しそうに吸い上げる音が聞こえた。荒んだニュースばかりの中、自然の中にいるとホッとする。

古民家では、3ヶ月ぶりに母の知人親子と会った。彼女は母より二つ下の94歳。3ヶ月の間に足が弱り車椅子になっていた。彼女は息子さん夫婦と立川で暮らしている。こちらの東京北社会保険病院にかかっていて、月に1回だけ、赤羽のお嬢さん宅に来る。私が母にしているように散歩へ毎日連れ出せたら体力を保てるのだが、立川でそれを望むのは難しい。

帰り道、母は憂鬱に無口になった。急に老いた彼女のことがショックだったようだ。
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Gask人が文明を作ったのは、その心配性のおかげだと思っている。

飢餓への心配から農業が生まれ、死への恐怖から医学が進歩した。

死後の世界への恐れから、宗教や巨大墳墓が生まれた。

そのような訳で、小春じいはポチの心配性を非難はしていない。私の経験では、成功した経営者の多くは繊細で心配性の人が多い。ただ、一般人との違いは、そのマイナス要因を巧く操る能力を備えていることだ。

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2009年11月 6日 (金)

映画「渚にて」主題曲ワルチング・マチルダを知ったのは多感な15歳だった。09年11月6日

フジテレビ「不毛地帯」は力作で毎回見ている。ドラマだけでなくエンディング曲も気になる。
昨夜の回、最後まで注意して見ていると、トム・ウェイツ(Tom Waits)と表示され、曲名は「トム・トルバーツ・ブルース」(「Tom Traubert's Blues」)と分かった。

すぐに、iTunesストアーで単曲150円でダウロードした。
このシステムは大変便利だ。曲が欲しい時、昔は大きなレコード店へ出かけ、店員に色々説明して、不要な曲入りのアルバムを高額で買っていた。

この簡便さにレコード店は対抗出来ない。以前、定期的にCDカバー絵の依頼が来ていたが、このシステムのおかげでCDが売れなくなり、仕事は消えてしまた。

トム・ウェイツはロックの人らしい。アウトローのような独特の雰囲気で、渋い力強い声は心に染み入る。
下、YouTube--ライブ7:17

曲の元歌はオーストラリアの国民歌ワルチング・マチルダ(Waltzing Matilda)で若い頃から親しんでいる。題名の意味は「ワルツを踊るマチルダ」と思っていたが、間違っていた。

マチルダとは放浪者が食物や身の回りのものを入れて持ち歩くズタ袋のこと。ワルツともまったく無関係の曲だ。元歌のあらすじは、羊泥棒をした放浪者が追いつめられて自殺するという陰惨なものだ。しかし、オーストラリアの大らかな土地柄のせいか暗さは感じない。ワルチング・マチルダは、50年昔、1959年制作米映画「渚にて」の主題歌に使われ、日本でも大ヒットした。

映画「渚にて」あらすじ。
第三次世界大戦が起きて世界が滅亡する寸前の出来事。戦闘シーンは一切無く、死に関しては、最後の無人のサンフランシス街並シーンで象徴的に描かれているだけだ。

・・・核戦争に生き残った米原子力潜水艦は、死の放射能汚染を免れたオーストラリア・メルボルンへ到着した。乗組員たちはメルボルンで短い平和な生活を過ごした。しかし、オーストラリアにも放射線汚染は迫り、住民の死は秒読み段階だった。原子力潜水艦の乗組員たちは、母国で死を迎えようと再び出航して行った。

下、YouTube--「渚にて」最後のシーン10分間

この映画を見たのは多感な15歳だった。YouTubeの最後のシーンを見ながら、宮崎の眩しい太陽とメルボルンの光景が記憶の中で溢れるように蘇った。心を打つ映画は自分の体験の一部になるようだ。

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母は私の手助けなしでは立ったり移動したり出来ない。しかし、悪いなりに安定して来た。睡眠導入剤レンドルミンを4分の1錠まで減らしたこと。効果のない薬を止めたこと。それらの効果か、頭がしっかりして笑顔が増えたのが救いだ。

母の疲労感は呼吸に問題があると最近気づいた。転ぶまいと緊張のあまり息が浅くなってしまうようだ。それで、努めて息を深く吐くように、と言うと、直ぐに実行してくれた。そのおかげで、最近少し疲労感が軽減したように見える。

しかし、所々の記憶が抜けるのは相変わらずだ。
10時過ぎ、ブザーで呼ばれて行くと「睡眠薬を飲んだかしら。」と聞く。安定剤だと思い込ませている偽薬エビオス4錠と小量のレンドルミンは、既に9時に飲ませた。
「1時間前に、飲ませたよ。そんな大事なことを忘れる訳がないだろう。」
強く言うと、「あら、そうだったの。ごめん、ごめん。」と母はすまなそうに謝った。頭がしっかりして欲しいと願い、ついつい強く言ってしまうのだが、謝る母を見ると辛くなる。
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Namsz_3雨上がり、タマとポチが暮らす空き地に水たまりができた。

ポチは母方のペンギンの血が騒ぎ泳がずにはいられなかった。

正確には「羹に懲りて膾を吹く」
熱い吸い物で火傷してから、冷たい酢の物まで息を吹きかけて食べる、行き過ぎを戒めた諺。

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2009年11月 4日 (水)

銀製の百円玉。09年11月4日

Dor昔のドロボーはこのスタイルで描かれていた。
無精髭でハンチングに、ニッカボッカにゲートルに地下足袋。でっかい唐草模様の風呂敷は必須アイテムだった。加えて、どこか間が抜けた愛嬌があって、人の温もりがあった。比べると、今の犯罪者は冷徹で非情だ。

タマの全財産を254円にした訳は下記の理由による。

昔、日雇い労働者のことをニコヨンと呼んでいた。語源は昭和20年代の失業対策事業の1日最低保証金240円による。渡されたのが百円札2枚に十円4枚だったのでニコヨンと呼んだ。子供だった私はそれを勘違いし、ニコヨンは254円だと最近まで思い込んでいた。

ニコヨンの語源は百円玉2個の説があるが、百円玉が登場したのは昭和34年で時期がずれる。
最初の百円玉は銀貨で、今の白銅製百円玉と比べると品格も価値もあり、銀特有の肌に吸い付くような柔らかな触感は魅力があった。

ちなみに九州での百円玉の流通は遅く、上京した昭和38年当時も百円札が主力だった。その頃、持参した百円札の束は今もしまってあるが、流通が多過ぎて一向に値上がりしそうにない。

昔、彫金職人をしている頃、年寄りは銀器が使いやすいと知った。実際、銀地金を手にした時の肌に吸い付くような触感は心地良かった。それで、銀製のナイフ、フォーク、ステッキの柄は、掌が乾燥しがちの年寄りでも滑り落しにくく使い易かった。

先の最低賃金の240円は今の金額では3000円ほどだ。
当時、ビー玉で栓をしたラムネが10円。封切り映画や三矢サイダーが30円。かき氷が10円だった。

私の小遣いは母から5円、祖母から10円、合わせて15円もらっていた。五円玉は穴明きと穴無し両方が通用していた。小学2年の時に10円銅貨が登場したが色が地味で安っぽく、同じ貰うなら緑色調の国会議事堂10円札を喜んだ。

それから少し後に1円玉が出たが、あまりに軽く二宮尊徳の1円札の方がありがたみがあった。と言っても、1円で買えるものは芋飴1個くらいだった。戦後直ぐに発行された黄銅製50銭玉も通用していたが、単独で使うことはなく、偶数枚集めて使っていた。

ニコヨンの240円の生活はとても苦しかったはずだ。
先日、バングラディシュの船の解体現場の劣悪な労働環境を報道していた。危険なアスベストや化学物質が混入した廃油にまみれて働いた日収が200円ほどだった。それよりはましだが、今の生活水準から見ると、ホームレス並の生活だった。

Fuji2Hiruga昨日は木枯らしが吹き、雲一つない青空が広がった。

散歩道の傍らに、紫の昼顔が咲いていた。

朝、2メートルを疲れて歩けないと言っていた母は、昨日も今日も赤羽自然観察公園ではきちんと歩いた。母を観察していると、家では緊張して息を止めて歩いている。対して、公園ではゆったりと呼吸しながら歩いている。それで酸素飽和度に差が出たのかもしれない。

今は母に息をしっかりと吐き出すように薦めている。気のせいか、息をしっかりと吐き出すと、やや疲労感が薄まるようだ。

母は毎朝「今日は死ぬ。」と言っていたが、11月に入ってから言わなくなった。どんな心境の変化だろう。死ぬと思っていても、赤羽自然観察公園へ行くと何とか歩けるし、死ぬ気配がないので言う気分が失せたのだろう。

去年、出版が没になった原稿料が、やっと出ることになった。
僅かな額だが、年末年始の生活費のたしになり助かる。昨今の出版不況もあり、そのケースではなかなか金は出ない。10年前までは、小さな仕事でも没になればそれより多い額が出た。隔世の感がある。

下、新作の絵。
月夜に山の動物たちが会議をしている。
小さな子供が話し声に目覚め、会議を眺めている

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