2008年5月15日 (木)

久しぶりの好天。08年5月15日

昨日は寒い雨の中、自然公園へ出かけた。楽しみにしていた田植えは雨で中止で静かだった。昔の学校なら、寒い雨でも決行した。今は、生徒に風邪を引かせると父母の抗議が大変なので、止めたのだろう。
肌寒いので、古民家の土間で、母にかまどの火をあたらせると、煙りに咳き込んだ。
「合板の板切れは化学物質が多いから、煙りの質が悪いんですね。」
燃していた係のIさんが、合板の端材は出入りのお客さんが好意で持ち込んだものだと話した。自然の薪の煙りなら母が咳き込むことはない。化学物質を多く含むこの煙りは、茅葺きの防虫効果が強いかもしれない。

最近、母は更に食欲が落ちて、僅かな食事でもすぐに吐き気を催す。吐き気が起きたら気持ちを落ち着かせ、ナウゼリンを飲ませる。最近は更に腕の吐き気止めのツボを押すことにしている。この指圧は若干効果があるようだ。

本の方は、編集方針が定まらず、たえず振り回されている。昨日、編集部の意向に添った原稿を提出した。もし、それにダメが出るなら、完全撤退を決意したが良いようだ。絵に集中しないと生き残れない厳しい状況なのに、こんなあやふやなものにエネルギーを取られたくない。仮にダメ出しが出なくても、これから先に、クレームがつくのは大いに予想される。今回、半年以上物書きの世界を体験し、ライターをしている知人たちが、おしなべて性格が暗い訳がとてもよく分かった。

対して、絵の世界は明るく、陰湿なイジメめいたことはほとんどない。本日、カレンダーのプレゼンのことで、デザイン会社のディレクターとデザイナーが訪ねて来た。彼らとは初対面だが、カラッとした冗談が通じ、実に楽しい。やはり私は、文字の世界より絵の方が性格が合っている、

今日は好天だが、母の散歩は休んだ。それでも食材の買い物は欠かせず、久しぶりの青空を見上げながら外出した。桜並木から緑道公園を一人で歩いていると、何となく母を感じる。人は終わりが近づくと、馴染んだ場所に魂の一部が移って行くのかもしれない。

先日母に、死んだら遺灰を好きな場所にばらまいてやる、と話すと、とても喜んでいた。しかし、実際は法規制があり無闇矢鱈に散骨はできない。散骨などしなくても、ゆかりの場所で故人を思い出せるならそれで十分だ。

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2008年5月13日 (火)

緩やかにグミの茂みへ鈴の音 08年5月13日

先日、九州の兄からビワと日向夏が送って来た。今朝の五時、母はお礼の電話をした。
「最近、身体の調子が悪いから、緊急連絡の電話番号を教えといて。」と母は話していた。私が代わると、「やっぱり、かあちゃんは悪いと。」と兄は聞いた。「これから夏だから、かなり厳しいね。次の葉書に携帯の番号を書いといて。」と言うと、「そうか。」と寂しそうだった。

寒い曇天だ。時折、小さな雨粒が舞う中、散歩に出た。
「今日も、散歩へ出られて良かったね。」と言うと、母は小さく頷いた。
郵便局前の警備員のおじさんが母に、にこやかに挨拶した。私は彼を"雪だるまおじさん"と呼んでいる。歳は70程で笑顔が良い。太った身体で、直立不動の姿勢から律儀に挨拶する姿が雪だるまに似ている。

御諏訪神社と道路を隔てた向こう側の路傍の階段に、俳句おじさんが腰を下ろしていた。今日も酔っぱらって甲高く良く通る声で俳句を詠んでいた。自作の句らしいが、ろれつが回らず意味不明。髭は白く、60代後半に見える。
漂泊の俳人、尾崎放哉も種田山頭火も共に酒飲みだった。前者の代表作は"咳をしても一人"。後者の代表作は"分け入つても分け入つても青い山"だが、遠く霧島を眺めて育った私は"霧島は霧にかくれて赤とんぼ"が好きだ。
そして、自然公園で私も一句。

緩やかにグミの茂みへ鈴の音

寒い公園は静かだった。母は何度も休みながら10メートル程を歩いた。母の杖の鈴の音を私はゆっくりと追った。グミの茂みの下で「よく頑張ったね。次は、もう少し歩けるよ。」と母を車椅子に座らせた。
「お元気ですね。」通りかかった顔見知りが母に話しかけた。「元気ではないですよ。」と私が答えると、「88歳のお袋が入院しているんだけど、1週間寝ていただけで、まったく歩けなくなっちゃった。やっぱり、歩かせないダメだね。」と嘆いた。今は必死でリハビリをしているが、1メートルも歩けないらしい。最近、そのように親が弱った話しばかり聞く。

帰り、古民家に寄った。かまどでは薪がパチパチ弾けながら燃え、ハガマからは湯気がたちの上っている。寒いので、母としばらく炎を眺めていると気持ちが和んだ。
古民家前の田圃では、担当の松下さんが明日の田植え準備をしていた。遠い土手上から「早くから精が出ますね。」と声をかけた。松下さんは、水路に群生しているキショウブを少し持って行けと言う。遠回りしてあぜ道まで下りると、莟の多い茎を選んで鎌で切ってくれた。放っておくと水路一杯に生い茂るので、そうやって間引きするらしい。

帰り、母は土手上から大きな声で松下さんに礼を言っていた。
「明日の田植えは必ず見ようね。」と母に言うと「頑張るよ。」と少し明るく答えた。以前は、散歩に出るのは当たり前だったのに、今はその時にならないと分からなくなった。

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2008年5月11日 (日)

昔の大家族には生と死のダイナミズムがあった。08年5月11日

今朝も母は疲労を訴え暗い顔をしていたが、ようやく、私はそんな母に慣れてしまった。励ましながら椅子に座らせ、「これは気分の落ち込みを治す特効薬だから、すぐに元気になるよ。」と抗欝剤スルピリドを飲ませた。始め顔をゆがめ憂鬱に腰かけていた母は、やがて居眠りを始めた。20分程して行くと母はお化粧を始めていた。どうやら抗欝剤と私の言葉が効いたようだ。
母の体調が落ちているのは間違いないが、実態以上に重い症状を示している。元気だった老人がさほど悪いところはないのに急速に体力が落ちる場合は老人性欝が考えられる。これは老人に大変多い症状で、もし心当たりがある方は医師と相談してみると良い。

3月と比べると母の世話の負担は二倍になった。しかし、それで落ち着いてくれるなら、さして苦にならない。困るのは急速に悪化して、24時間介護が必要になることだ。できることなら、その期間は短く終わって欲しい。

雨の中、自然公園へ出かけた。途中、雑種のワンコが母の車椅子に近づいて前足をかけた。母は頭を撫でながら笑顔になった。茶色い日本犬の体型で長毛種がミックスしている。とても可愛い女の子で、名はチェーリーと飼い主が教えてくれた。通り道のゴールデンのルイちゃんとは仲が悪いと飼い主は話した。彼女はルイちゃんの匂いの着いた私の袖口を興味深く嗅いでいた。もしかすると、若いルイちゃんに本当は興味があるのかもしれない。

自然公園に着くと一瞬だけ雨が止んだので母を歩かせてみた。10メートルほど歩いて止めたが、それでも嬉しい。「明日になれば、あと1メートルは余計に歩けるよ。」と母に言うと、笑顔になった。
車椅子に乗せると同時に再び降り始めたので雨具を被せた。公園の雨に洗われた新緑が美しい。雨音を聞いていると戦後間もない子供の頃を思い出した。
「雨が降ると、雨漏りの音が賑やかだったね。」と母に言うと、「子供たちは大騒ぎで家中の洗面器やバケツや鍋まで集めて、雨漏りを探しては敷いていた。」と懐かしそうに話した。日本は貧しかったが、子供たちは元気で明るく貧乏を苦にしなかった。それは今の東南アジアあたりの貧しい下町の雰囲気に似ている。当時は三世代同居の大家族が多く、同じ家で年寄りが死んで行く一方、新しい命が生まれていた。その生と死のダイナミズムは、当時の人間を逞しくさせていたようだ。

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2008年5月10日 (土)

母は気晴らしに点滴をしてもらった。08年5月10日

昨日は母は少し元気を取り戻したのに、今朝はベットから起き上がれない。それを何とか励まして、朝の薬を飲ませた。朝食も食べたくないと言うのを、ようやく半分だけ食べさせた。明日は日曜で病院は休診。寝ていたいと言うのを無理に起こし、強壮ドリンクを飲ませて、川向こうの生協浮間診療所へ連れて行った。午前9時、待合室は誰もいない。事前に電話を入れておいたので、すぐに看護婦さんがベットに寝かせてくれた。

いつもの土曜担当の若い医師ではない。代診の老医師は母を殆ど診察せずに、老衰ですねと言い放った。この投げやりな態度を見ると、今日の患者が少ない訳が分かる。老人同士の口コミは凄い。悪いと噂が立てば、患者は潮が引くように消える。
いいかげんな医師だとこちらの意見が通しやすい。母が点滴を希望していたので、その旨医師に伝えると、200mlにしますか、300mlにしますかと私に聞く。少ない方が早く終わるので、200mlにしてもらった。点滴の早さは、心臓が弱っているからゆっくりが良い、と医師は指示していた。投げやりでもその辺りは慎重だ。一番遅いのでは2時間かかるので1時間ペースにしてもらい、一旦私は家に帰った。

1時間後に診療所へ戻ると、まだ10ccほど残っていた。母がトイレへ行きたいと言うので、看護婦さんに点滴を抜いてもらい、連れて行った。点滴はただのリンゲル液で、元気にする働きはない。しかし、母は看護婦さんに身体がすっきりしましたとお礼を言っていた。もしかすると、疲労は気分の所為では、と少し楽観的になった。

診療所から小雨の中桜並木へ車椅子を押した。御諏訪神社先の民家の柵の間から、ゴールデンのルイちゃんが鼻先を出して私たちを待っていた。母の杖に付けた鈴の音を彼はよく知っていて、聞こえると家から出て来る。
「おばあちゃんは元気がないんだよ。」
頭を撫でると、ルイちゃんは傍らの母の手をペロペロとなめた。大きな黒い目が優しく、とても可愛い。それまで暗い顔をしていた母に笑顔が戻った。ペットの癒し効果は本当に素晴らしい。

濡れた舗道が美しい。桜並木から東京北社会保険病院の庭へ車椅子を押し上げて散歩した。しかし、母は帰りたいと無口になった。以前なら、自然に触れるだけで元気になっていたのに、老いは停めようもなく進む。
帰宅すると姉が来ていた。姉がいると少しだけ私は楽になる。ベットに休ませたり、トイレの補助は姉に任せ、私は横になった。ここのところ4時間睡眠が続く。加えて、本の編集方針が揺れ動いていてストレスが重なる。頭が冴えて寝付けないまま起き上がり昼食を作った。食事を始めた母は傍らの姉に帰るように言った。姉はお喋り好きで、ついつい話しかけ、母の集中を途切れさせる。集中が途切れると母は誤嚥を起こす。一緒に暮らしていない姉には、母の体のことは理解出来ないようだ。

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2008年5月 8日 (木)

頑張る老人の、寝たっきり期間は短くなる。08年5月8日

昨夜の地震に母は驚いて目覚めた。それから一睡も出来なくて疲れた、と訴えるので、強壮ドリンク剤を飲ませた。頻繁に飲ませると効き目はなくなるが、週一のペースならなんとか効いてくれる。
今日は入浴介助の日なので、散歩は休む。

昨日の自然公園での歩行リハビリを、母は必死でこなした。同じようにリハビリに来ていた老人達の殆どが、少しずつ歩く長さが短くなり、最後は顔を見せなくなった。母はそのことをよく自覚していて頑張る。
肩で息をしながら休み休み歩く姿は痛ましい。しかし、「止めても良いよ。」と声をかけても止めようとしない。小さな歩幅でゆっくりと刻むように進む。老いもこの段階になると、精神の強さが重要だ。精神が弱まると、身体は現実の衰え以上に衰退する。

母は無理をした疲労感が強く、帰り道も帰宅してからも、殆ど口をきかなかった。何か話しかけても返事はとても小さい。以前は声が大きく、道で「本当に、邪魔な人。」等と、すれ違う人の悪口を言うのが恥ずかしかったのに、今は蚊が泣くように小さい。
母の声が小さいので、つい私も小声で話しかけしまう。最近、それは私にも母にも良くないと気付いた。それで今は、元気よく話しかけることにしている。すると、母の返事もほんの少し力強くなる。薬や治療より気持ちの勢いが大切だ。
個々に与えられた寿命は決まっていて、元気な期間を長くすれば、弱った期間は相対的に短くなる。だから、母も私も、頑張り続ければ寝たっきりの期間が短くなると信じている。

午後は歯のメンテナンスに赤羽弁天通りの上野歯科医院へ出かけた。この医院の上野医師の技術は優れていて、治してもらった歯はすべて問題なく使っている。加えて歯科衛生士さんは実に良い仕事をする。彼女たちの的確な判断のおかげで、私は失うはずの歯を何とか維持できた。
今日は歯石を取ってもらいながら、眠ってしまった。歯科医院を嫌がる人がいるが、私は歯を綺麗にしてもらうのは心地良くて好きだ。

本の方は編集方針が絶えず揺れ動くので困っている。彼らは強烈なプロ意識があるが、我が侭な子供みたいなもので、喧嘩の売りようがない。早く、決まりをつけて絵に集中したい。

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2008年5月 7日 (水)

久しぶりに銀座。08年5月7日

昨日、昼食後に姉が訪ねて来た。後の予定を聞くと何もないと言う。それならばと、母の世話を頼み菊池氏の木版画展へ出かけることにした。姉に母の世話を頼んだのは始めてである。母と姉の夕食を用意して、薬の飲ませ方、食事中の誤嚥の防ぎ方、トイレへの連れて行き方、ポータブルトイレの始末の仕方、それらを教えるのに小1時間を要し、家を出たのは午後2時を過ぎていた。

母をデイサービスに頼んでいた一昨年までは、週に1回、午前9時から午後3時までの6時間だけ外出できた。しかし、その頃から母は終日車椅子に座り続けることが無理になって、デイサービスを止めた。施設には横になるスペースがあるが、母は自分で寝起きはできない。かと言って、いちいち係員を呼ぶのもストレスだったようだ。母に必要な年寄り仲間とのコミニュケーションについては、自然公園への散歩で十分に満たしていたので迷いはなかった。しかし、母がデイサービスを止めてからは、のんびり外出できる日がなくなった。

久しぶりに母のことを忘れ、快晴の爽やかな風の中を北赤羽駅へ歩いた。埼京線から赤羽駅で京浜東北線の快速に乗り換える。連休最終日で車内は空き、楽に座れた。座るとすぐに眠ってしまい、東京駅で目覚めた。慌てて飛び降り山手線へ乗り換え隣の有楽町で下車した。

有楽町マリオンのカラクリ時計が3時の時報を打っていた。休日にしてはカラクリ時計の人形の動きを見物する人は少ない。私は人形達をちらりと見上げて先を急いだ。傍らを中国の胡錦濤国家主席来日反対の右翼の街宣車が騒々しく通り抜ける。それらの騒々しさにくらべ、人通りはのんびりしている。昼間の銀座を歩くのは久しぶりだった。

ギャラリーオカベへ着くと菊池氏は接客中だったので、事務所で川口さんと暫く雑談した。その後、菊池氏とお客さんを交えビールを飲んだが、母のことが気になり、途中家へ電話を入れた。姉に任せたが何となく母のことが気になる。

7時まで飲んで8時に帰宅した。母は何事もなくベットに横になっていた。姉は私と入れ替わりに帰宅した。
母は午後になると疲労を訴えるが、悪いなりに落ち着いて来た。良くなることは期待していない。このまま夏を凌いでくれれば、と思っているが、その先がある訳ではなく、更に厳しい。今は、母の終局を身近に傍観することで、何を学べるかを考えている。

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2008年5月 5日 (月)

笑いと夢は、人を救う。08年5月5日

3日夜、同年のT君から飲みに誘われた。母をベットに寝かせ、出かけようとすると、母は軽く吐いた。手早く片付けたが、約束の時間に30分遅刻してしまった。私が出た後、T君は心配して家へ電話をしたようだ。彼に会うと、電話に出た母の声はとても元気そうだと言った。一瞬なら母は元気なふりができる。日常の母を知らない人は大抵それに騙される。

約束の池袋へ着くまで、T君の携帯に何度も電話を入れたが通じなかった。
携帯を持ち慣れない彼は、出かける時忘れたと言った。我々の世代は携帯を殆ど役立たせていない。理由は、持って外出しない、いつもスイッチを切ってある、カバンの奥へしまっていて着信音が聞こえない、と様々だ。本当に困ったことだ。

T君の母親は私の母より一つ上だが、とても元気に九州の高級老人施設で穏やかな老後を送っている。体調はどこも悪くなく100歳までは生きそうだとT君は話した。それに引きかえ、我々の老後は厳しい。10年後は74歳になるが、これから仕事で頑張れる時間はとても少ない、と言った話しをした。別れ際、T君は母へのお見舞いだ、と三万を包んでくれた。辛い時なので本当に助かる。

5日
自然公園の古民家では親子柏餅作りで賑わっていた。沢山の知り合いに会ったが母はあまり喋りたがらなかった。体調が悪いだけでなく、何となく死期が近いと感じ、欝になっているようだ。今まで何度も体力低下はあったが、今程に落ち込むことはなかった。笑顔が消えた母には喪失感を感じる。お互い、今の状況に早く慣れたいと思っている。

母の体力は3月までと比べ、三分の二ほどに落ちた。今までは一人で椅子から立ち上がれたのに、今は私の補助が必要だ。殊に、午後から夕暮れにかけて疲労が増し、状態は悪い。それでも今の状態で落ち着いてくれれば良いが、暑くなれば更に低下しそうだ。

今日の散歩で兄への葉書にプリントする母の写真を撮った。先程、データを開いてみたが良い写真が少ない。どの母の顔も暗く沈んでいる。しかし、最後に我が家近くのカタバミの花の傍らで撮った写真だけは以前と同じ笑顔になっていて、救われた。
このところ、笑顔の大切さを痛感する。ウソ笑いでも良い。馬鹿馬鹿しいお笑い番組で笑うのも良い。笑わないと人は正常に生きて行けない。

傍らのテレビを点けると、ディズニーランドのシンデレラ城前の広場で歌声に合わせミッキーやグーフィ達の着ぐるみが踊っていた。笑いも良いが、この夢の世界も素晴らしい。シンデレラ、白雪姫、眠れる森の美女、美女と野獣、とおとぎ話の世界に見入ってしまった。おとぎ話は子供たちだけではなく、大人にも必要なもののようだ。

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2008年5月 3日 (土)

滅入っている時、笑いは救ってくれる。08年5月3日

母のベットに厚ベニヤを15度の角度で置いたので、母は起きるのが少しだけ楽になった。しかし今朝も、母は重い疲労を訴えた。足はふらつき、寝返りは打てず、手は震えてお茶碗を落しそうになる。母はショックで表情が暗くなった。こんな時は散歩に連れ出すのが一番の薬だ。朝から雨だが、朝食後、散歩に行こうと母を誘った。
「自然公園は行きたいけど、こんなに疲れていては無理。外で具合が悪くなったら、みんなに迷惑かけるから。」と、母は今日は寝て過ごすと言った。
「寝ていても疲労は治らないし、寝たっきりに近づくだけだ。それより思い切り散歩に出て、仮に無理をして死んだとしてもかまわない。新緑の中、車椅子の上で死ねるなら最高の生き方だ。」
無茶なことを言ってしまったと思ったが、母は「そうだね。車椅子で死ねたら良いね。」と意欲が湧いたようだ。疲労困憊していても、いつものように自然公園へ出かけるのが、私も母も、生き生きした人生だと思っている。

カッパで隠すので、寝間着に半天を着せただけで車椅子に乗せた。外に連れ出すと細かい雨が顔に当たった。「外は空気が良いね。」と母は喜んだ。
雨の自然公園は静かだった。集まって来た顔見知りのスズメ達に餌を撒くと、嬉しそうにプチプチとついばんだ。母はそれを可愛いと笑顔で眺めていた。

管理棟の係員と挨拶を交わし、古民家へ寄った。前庭に集まっていた顔見知りの野菜作りのグループが母に声をかけた。皆に会うと母に笑顔が出て、少し元気になった。古民家の土間に車椅子を乗り入れ、「さあ、我が家に帰ったよ。」と言うと、母は更に嬉しそうに笑った。

帰り道、母は以前のように色々昔話を話した。
11時に帰宅すると姉が来ていたので、歩けない母を任せた。
姉は母の冬物の衣類の整理に来た。母はベットに横になったまま姉の作業を見ていた。
「見張っていないで眠りなよ。」と母に言うと「さぼらないように見とっとでしょ。」と姉が笑い、母もつられて笑った。
「マーも晃子も、優しくて嬉しいね。」
母が言うと、「そげんこと、言わんでも分かっと。」と姉が久留米なまりで切り返した。姉は宮崎育ちだが、母との会話は久留米なまりになる。母の身体は口ほどに元気ではないし、疲労感は少しも取れていない。しかし、皆滅入っていただけに、母の笑顔には本当に救われた。

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2008年5月 2日 (金)

電動ベットになれば、母は寝たっきりへ一直線だ。08年5月2日

5月1日
母は疲労感が強いので散歩を休ませた。
午前中、私一人で祖母の命日の供物を買いに駅前へ出かけた。緑道公園に入ると、眩しい舗道を茶色いカナヘビが夢中で横断した。逃げ込んだ草むらを覗くと、もう大丈夫と涼しい顔で休んでいる。命の灯が危うくなった母と暮らしていると、そのような小さな命の輝きに惹かれる。
「がんばれよ。」とカナヘビに声をかけ、再度新緑の中を歩いた。途中、床屋さんを覗くと、客がいない。予定を変更して頭を刈ってもらうことにした。

「母は最近弱りました。食事を摂ってくれないので困ります。」
頭をあたってもらいながら、床屋さんに話した。去年、床屋さんは母と同い年の初代のお父さんを亡くしている。
「父も最期は食べてくれなくて困りました。大好きだった刺身を小さく切って出しても、一かけらを飲み込めず、医師に相談しても、老衰だけはどうしょうもないと匙を投げられていました。」
床屋さんの話すことと、母の状態は良く似ていて、話しながら辛くなった。

さっぱりした頭で、駅前商店街の八百屋へ行き供物に西瓜を買った。帰り道、遠く祖母が亡くなった旧居の辺りを墓代わりに手を合わせた。久留米の西福寺にある祖母の墓にはもう20年ほど詣っていない。祖父の甚平さんは良い石を見繕って墓石にした、と母に話していたが、第二次大戦末期の空襲で焼夷弾を浴びて半分焼けた。

午後は、雑貨のミニユチュア作りのメーカーの広報担当のTさんが訪ねて来た。
昔の生活用具のミニュチュアを母に見せて、話しを聞く為である。母は来客に元気になり、小さな昔の台所用具を手にして、懐かしそうに昔話をしていた。

夜、母は疲れ早く寝た。私も睡眠不足と疲労が重なり、少し原稿を書いて、11時に床に就いた。

2日
早朝、起き上がれないと母に呼ばれた。相当に疲れはてている様子だ。やはり、電動ベット導入の時期が来たようだ。しかし、これは後戻りのできない選択だ。その前に、上半身を起こすようにベニヤ板をベットのマット下に置いて試すことにした。

母の散歩を兼ねて、ベニヤ板を買いにでた。自然公園経由で中山道へ出て志村3丁目のドイトまで下った。90×80センチのベニヤ板をリュックにくくり付け、背負って母の車椅子を押した。涼しくなるとの予報は外れ、シャツが汗で濡れるほど蒸し暑い。環八から新河岸川河畔の遊歩道へ出ると涼しくてホッとした。

今、母を改造したベットに寝かせて使い心地を試している。これで、電動ベットを借りずに済むなら有り難いが、ダメなら連休明けに手配する。しかし、導入すれば母の筋力は日に日に弱り、すぐに寝たっきりになる。母は限界ギリギリで生かせて来たので、寝たっきりになれば死ぬのは早い。だから、ギリギリまで先延ばしにしている。

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2008年4月30日 (水)

介護する者の健康を大切にしないと介護は破綻する。08年4月30日

朝、母は強い疲労を訴え、トイレと往復しただけで辛そうに肩で息をしていた。相変わらず食欲はなく、無理に飲む込むように朝食を食べていた。
8時半、いつものように散歩の支度をさせた。しかし、疲労を訴えるので、そのまま生協浮間診療所へ連れて行った。連休前の診療所は混雑していて、待ち時間を聞くと小一時間はかかると言う。看護婦さんは疲れ切った母の様子を見て、ベットをしつらえてくれた。このあたりの配慮が、この診療所は行き届いていて助かる。

母は横になると直ぐに寝息をたてて寝入った。傍らで、私がアエラ2冊を隅から隅まで読み切った頃に母は目を覚ました。丁度、母の診察時間で、院長の女医さんがベットまでやって来た。
母に問診をしながら聴診器をあてたが、呼吸音にも心音にも異常はない。母はその診断が不満で、「何か、元気になる注射をして貰えませんか。」と無理なことを頼んだ。若くて元気な人なら注射で元気になれるが、母の疲労は老いによるもので、打つ手はない。
「点滴や注射より、お口から召し上がるのが一番身体には効きますよ。」女医さんは母に優しく説明していた。育ちの良い優しい女医さんである。母は納得して少し元気になった。

11時に診察が終わり、それから駅前へ行って洗剤や食品を買った。
昼食も母は食欲がなく食事を残した。カロリー不足分は牛乳とオリーブ油入りの野菜ジュースで補った。

母は先月と比べると一段と体力が落ちた。
回復を願い、色々試みているがまったく効果はない。いよいよ終末期が近づいて来たようだ。せめて疲労と食欲不振を何とかしてあげたいが、それは医師にも治せないことだ。かと言って、老衰の症状だから諦めなとは言えない。それより辛いのは、一日中、母の訴えに振り回されていることだ。このままでは私自身が倒れてしまう。今は、弱って行く母に右往左往せず、私の健康を第一に考えよう。それにしても、これから訪れる猛暑をどう過ごさせたら良いか、考えるだけで憂鬱になる。

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2008年4月28日 (月)

大家族が集まった祖母の通夜が懐かしい。08年4月28日

昨夜は母の咳で何度も起こされた。母も十分に眠っていないようで、今朝は強い疲労を訴えた。
散歩中、母は殆ど喋らなかった。陽気で話し好きだったのに、無口な母を見ると喪失感を覚える。それでも、散歩道で知人に会うと母は一瞬で元気になりいつものように挨拶した。

古民家の前庭の菜園で春菊が黄色い花を咲かせていた。直径10センチほどの一重の清楚な花である。食用目的の春菊は花が咲くと堅くなるので、この花を見たことがある人は少ない。
前庭で母に輪投げをさせて、古民家の土間で休憩した。他に客はなく、かまどで薪が弾ける音が土間に響いた。時間が止まったようなこの空間は本当に安らぐ。
「昔の家は、何十年も変わらなかったね。」と母に話すと、
「あの頃は朝早くから忙しかったけど、楽しいばかりで、ちっとも辛くなかった。」と、私たちが小さかった頃のことを話した。我が家は大家族で、更に他所の大人も交ざり、いつも賑やかだった。貧しくて娯楽はラジオと映画くらいだったのに、本当に楽しい子供時代だった。

帰りは久しぶりに都営桐ヶ丘団地を抜けた。通り道の石垣上に大きな躑躅の株がある。もう、満開だろうと期待していたが、まだ3分咲きだった。このツツジが咲くと祖母の命日が近い。祖母は3週間程寝込んで死んだ。最期の1週間は、肝臓が弱り、解毒されない毒が頭に影響して、一晩中、一人言を話していた。内容が面白いので録音し、昼間祖母に聞かせると、
「そーの、こげなこと話していたの。」と久留米なまりで、祖母は楽しそうに自分の一人言に聞き入った。
しかし、その三日後の5月1日早朝、祖母はあっけないくらいに静かに逝った。

その日の内に、九州から長兄と次兄が上京して来た。狭い我が家に、子供の頃以来の大家族が再現されて、祖母の死の喪失感より再会の暖かみが勝った。今も、賑やかな通夜を思い出すと、温かい気持ちになる。その翌年、長兄は脳溢血で急死するので、大家族が集まったのは通夜が最期になった。翌日の葬儀は抜けるような青空だった。荼毘に付した戸田斎場の休憩室はまだ木造で、清潔で広い庭に溢れるように躑躅が咲いていた。

この日記を書き込んでいるとブザーが鳴った。慌てて飛んで行くと、母はベットで口を押さえている。すぐにビニール袋を用意して吐かせた。抗欝剤スルピリドは吐き気止め専用のナウゼリンと比べると効き目は弱い。しかし、気持ちを明るくするので本当に助かっている。

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2008年4月27日 (日)

抗欝剤スルピリドで、母はドラッグハイになった。08年4月27日

母に新しく処方された抗欝剤スルピリドは胃粘膜の血流をよくし、吐き気もたれを緩和する。抗欝作用は気持ちを前向きにし、心を安定させるので不眠にも効果がある。金曜から飲ませ始めたが、すぐに胃腸症状と不眠に効果があった。
しかし今朝、「吐き気は取れたけど、疲れは取れないね。」と母は訴えた。
「疲労は老いの症状として受け入れないと、どうしようもないよ。」と言うと、「ただ言ってみただけ。」と母は黙った。母にはできるかぎりのことをして上げようと思っているが、限界はある。母の疲労感は、たとえ名医でも治せない分野だ。

散歩は早めに出た。新緑を見ると厭なことは総て忘れてしまう。途中、東京北社会保険病院下の公園でお茶を飲んだ。公園の斜面から下りて来る冷たい爽やかな空気を、母は心地良さそうに何度も深呼吸していた。
少し離れたベンチでは、缶ちゅうハイ片手の説教おじさんが連れに説教していた。
「そんなことをしていて、どうするんだ。反省して先の事を考えろ。」
説教されている傍らの気が弱そうなおじさんは、小さくなって頷いていた。
「以前より元気がないね。」
説教おじさんの声が小さくなったと母が言った。確かに、蚊が泣くような声で、以前の勢いはない。加えて最近は、飲むと足がもつれすぐに転ぶ。それでも、飲み続けているところを見ると、よほど頑健な身体なのだろう。

緑道公園で顔馴染みの老人たちに会った。母は新しくした車椅子が乗り心地よいと自慢した。1年2ヶ月使い込んだ車椅子はタイヤが擦り減ったので、昨日、新しい車と取り替えた。金属部分は緑色メッキで、車椅子全体がグリーンの不思議な色合いをしている。
「ほほう、燃費が良さそうだ。」
老人達は車椅子をとりかこんで褒めた。新しい車は押すのが軽く、私の燃費は良い。

自然公園に着く頃、薄日が差して暖かくなった。
今日は公園ボランティア主催の野草試食会で、30人程の熟年達が集まっていた。今はノビル、ヒメジョオン、カキドオシ、タンポポ、カラスノエンドウ、シロツメクサと野草は豊富だ。都内でこのような催しに参加出来る北区住民は恵まれている。

仕事があるので早めに帰宅した。今、40号の絵を描いているが、もう一つの仕事の本の編集方針が乱れていて気になり、集中出来ず困っている。
昼食後、母に背中が痒いから痒み止めを塗ってくれと頼まれた。見た目は何もないが、歳を取ると痒みが出ることが多い。
「いいね。痒いと言えば塗ってくれる者がいて。一人暮らしの老人ではそうはいかないよ。」
と自分の老い先を言うと、「わたしが化けて出て、塗ってやるよ。」と母は明るく言った。抗欝剤スルピリドの効き目で、昨日から母はややドラッグハイになっている。疲れは相変わらずだが、気分が明るくなってくれたのは嬉しい。

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2008年4月25日 (金)

整形外科から内科へ病院のハシゴをした。08年4月25日

朝8時半、4週毎のペインクリニックのために、新河岸川対岸の北赤羽整形外科へ母を連れて行った。予約は8時45分だが、着くとすぐに治療にとりかかってくれた。終わるのは45分後なので、一旦帰宅して雑用を済ませた。母が居ない住まいはシーンとして静かだ。やがて厭でも、それが私の日常になる。静かで自由なのは素晴らしいが寂しくもある。もし私が40代なら、思いっきりやりたいことに挑戦する。しかし、60代の私では限界がある。

先日の新聞の週刊誌広告に、人気女占い師がテレビ降板した途端体調を崩した、とあった。体が楽になると、却って心身のバランスを失う。母が逝く頃は、私も身体にひずみが次々と生じる時期で、よほど気持ちを引き締め、体調管理に努めないと大変な晩年になってしまいそうだ。

母は珍しく、朝食のアイスクリームを食べなかった。それはアイスクリームに抹茶とオリーブ油を加えたもので、高カロリーで栄養バランスが良く、母の体調を保つ大切な食べ物だ。一昨年、母が緊急入院した最悪の頃でも、これだけは食べてくれて助かった。素人の私に特定は難しいが、楽観的には老人性鬱、悲観的には再発した肝臓ガンの症状と考えられる。

いつもは北赤羽整形から電話がかかってから迎えに行くが、今日は早めに行った。母は既に治療を終えて車椅子に座って待っていた。直ぐに支払いを済ませ、近所の生協浮間診療所へ向かった。静かな住宅地の移動は心地良い。途中、布団屋の軒下にツバメの巣があったので母に見せた。抱卵中の親鳥が珍しそうに見下ろすつぶらな瞳がとても可愛い。

診療所の担当医の藤沼医師はすぐに診てくれた。聴診器で胃腸の音を確かめ、色々質問をした。どうやら潰瘍の再発はなさそうだ。老人性鬱のように見えるので、その治療薬はないかと聞くと、スルピリドを処方してくれた。藤沼医師は素人の私の考えでも率直に耳を傾けてくれる。もし大病院なら、絶対にそうはいかない。支払いは190円と格安であった。

早く内科が済んだので、自然公園へ向かった。
緑道公園の途中にある桐ヶ丘体育館に消防車が次々と向かう。近づくとテレビ中継車が止まり、上空にはヘリが舞っている。何事かと通行人に聞くと体育館で異臭騒ぎがあったようだ。運動用具倉庫かトイレの配水管あたりから硫化水素様の異臭がして、敏感な人が騒いだのだろう。それくらいのことで消防車とは厭な時代になったものだ。

新緑の自然公園へ着くと母は少し元気になり、いつものように休み休み歩いてくれた。持って生まれた長命体質の人と違い、母が生きているのは、この日々の積み重ねのおかげだ。

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2008年4月24日 (木)

母用に介護ベット導入を考えている。08年4月24日

今日の母の散歩は休み、ケアマネージャーに介護ベットについて相談に行った。直ぐに導入する訳ではないが、突然必要になった時に備えるためだ。機能は様々で、慎重に選ばないと母に不向きなものがある。母は背中が持ち上がるだけのシンプルな構造で十分だが、殆どは余分な複雑な動きをする。それでも導入すれば、大いに役立つだろう。

ベット単体の1ヶ月借り賃は1200円前後と安い。しかし、それにマットレス、手摺が加わるので1500円程になる。気をつけなければならないのは入院時で、ベットは一旦返却することになる。その規則は使う方と業者からの不満が多く、実際は1ヶ月以内の入院なら、借り賃なしで置いておいてくれる。しかし、1ヶ月以上の入院になると、高額の実費を出すことになる。

今使っている母のベットは私の手作りで、ベットの下にキャンバスや額や道具類が置いてある。もし、介護ベットを導入するとなるとその置き場を考えなければならない。もっと頭が痛いのは手作りベットの処分だ。壊して捨てるには頑丈に作り過ぎた。できることなら、介護ベットの厄介にならずに済むことを願っている。

帰りにお昼の買い物をして帰ると、母はテレビの前の椅子で死んだように眠っていた。
お昼はサワラの西京漬、大根葉のチリメンジャコ炒め、キウイのゴールド、ワイン漬けプルーン、ヨーグルト。それらを少量ずつご飯に添えたが、食欲がないと手を付けようとしない。散歩を休んだので胃腸の働きが弱くなっているのだろう。こんな時も吐き気止めのナウゼリンがよく効く。この薬は脳中枢に作用して吐き気を止めるだけでなく、胃腸の動きも活発にする。以前、母が便秘した時飲ませると、腸の蠕動が活発になりすぐに出た。今日も少量を飲ませると、何とか必要量を食べてくれた。

午後、母は映画を少し観て、後は夕食までベットに寝ていた。母は車椅子散歩をしている間だけ生き生きしている。外で人と会えば挨拶し、快活に世間話をする。だから、殆どの人はとても元気だと思っている。家でも元気でいて欲しいが、もうそれは願わない。数時間だけでも、生き生きしてくれるなら、それで十分だ。

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2008年4月23日 (水)

老いれば体力が弱るのは自然なことだ。08年4月23日

自然公園で、母はいつもの距離を歩いてくれたが、途中、何度か立ち止まって休んだ。母が気持ちを奮い立たせて歩いているのは傍目にもよく分かる。だからあえて頑張れとは言わない。老いれば体力が弱るのは自然なことだ。

先日まで土筆が林立していた辺りは、今は杉菜に覆われ土筆は跡形もなく消えた。ミズキは若葉に変わり、間もなく花かんざしのような白い花が咲く。季節は1日も留まる事なく変化して行く。自然の移変わりを眺めていると、老いの変化も自然なものとして受け入れられる。

月初めの体調不良以来、母は毎朝、吐き気を訴えるようになった。今のところ、ナウゼリンがよく効くので助かっている。疲労感は相変わらず強く、顔を洗うだけでぐったりする。昨日の粗相も、体力低下によりベットから起き上がるのが遅れた所為だ。今までは自力で起き上がることを重視していたが、電動ベットを検討する段階になったようだ。食事の量も今までより更に減り、車椅子を押していても声が小さく聞きづらい。総ては終末期マニュアルにあるとおりだ。今まで母に少しだけ無理をさせていたが、もう、できる範囲に留めよう。

母自身、死を身近に意識するようで、死んだ人の事をよく話す。今日も母は、可愛がってくれた祖父の甚平さんの思い出を話した。仏壇の上に6歳の母と両親に甚平さん4人で写した写真がある。その写真を近くで見てみたいと言うので、額から外してスキャンしA4サイズに拡大してプリントした。母は甚平さんの顔を撫でながら「もうすぐ、会いに行くからね。」と楽しそうに話しかけていた。だからと言って、母が悲観的になっている訳ではない。死を覚悟をする時期が来ただけのことで、私はそれで良いと思っている。

それでも希望は失わせたくない。今日の散歩帰り生協で母が使う紫外線防止長手袋を買った。「夏の手袋を買っておいたよ。」と母に見せると嬉しそうな顔をした。去年と同じに炎天下の散歩を続けるのは厳しいが、少し外出するくらいならまだできるだろう。
9月の個展のため、作品制作で忙しい毎日だ。それまではどうしても母は元気でいて欲しい。

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«救急車で彷徨う高齢者患者。08年4月22日