2017年6月21日 (水)

日南市・大堂津紀行 17年6月21日

 五月十一日、朝まで郷里の大堂津へ持って行くT氏肖像画に手を入れていた。
二時間ほど眠り、十時に家を出て、お昼前に羽田空港着。
久しぶりの羽田は以前と何もかも変化していた。殊にセキュリティの厳しさは著しい。
鉛筆削り用の小さなアーミーナイフを手荷物に入れておいたら機内持ち込み不可で再手続きになった。

 十三時定刻に無事離陸。寝不足だったが地上風景が眺めたくて眠る気分にならない。
十五時に宮崎空港着。予定していた日南行きの列車は一時間待ち。案内所で聞くと路線バスが五分後に出発する。急遽バスに変更して、その旨、大堂津の郡司氏に携帯で伝えた。彼は地元の古刹円心寺の住職をしている。


 私は宮崎小学校六年・宮崎中学・大宮高校と宮崎市で七年間を過ごした。
当時の宮崎空港は芋畑に囲まれ、そこかしこに零戦を米軍攻撃機から守るための頑丈な掩体壕が残っていた。空港には国内唯一の航空大学が併設されていた。
旅客機はプロペラのフレンドシップ機が日に数度離着陸するだけののんびりした空港だ。離着陸の合間に、陽炎揺らぐ滑走路を友達と自転車競争したことがあったが、咎められなかったほどだった。


 当時の青島街道はほとんど車は走っていず、左右に田んぼや湿原が広がっていた。
道路に並行して宮崎軽便鉄道があった。数両の客車を引く小さな機関車のスピードは遅く、昔、ベルリン五輪の日本代表の村社講平マラソン選手と競争して負けたとの逸話が残っているほどだ。その牧歌的な光景は完全に消え、バスの車窓には気が重くなるほど雑然とした街並みが続いた。

堀切峠を過ぎて内海を過ぎると日南海岸ロードパークに入る。
昔の宮崎軽便鉄道は内海が終点だった。今その路線は日南市・北郷駅まで延長され、終点を鹿児島県志布志とする日南線に変わった。
国鉄時代、最初に敷設されたのは都城から志布志までの志布志線だった。その後、志布志線は日南の北郷まで延長された。今、それは逆転し、志布志・都城間は廃線となった。

ロードパークに入るとすぐに日南市に入る。観光開発がなされていない美しい入江が次々と現れ、今回の旅ではじめて旅情を覚えた。昔は旧飫肥藩の日南市と宮崎市は全く違う文化圏だった。両市が険しい海岸線と山地で隔たれていたからだ。
記憶では山地をうねうねと縦断するバス路線を山仮屋線と呼んでいた。海岸を行くのが主要路線だが、中新世後期の脆い水成岩質で、落石によりしばしば閉鎖された。雨の日に母に連れられて宮崎へ出かけた時、小型トラックほどの巨石が道を塞いでいたことがあった。ボンネットバスは小回りがきく。バスは巧みに岩を避けて前進した。峠を下って到着した青島と「こどもの国公園」は田舎者の私には目がさめるほど都会的な風景に見えた。


Bs_1


今は海岸線もトクソ山系の険しい山道も近代的に改修され、南北の二つの文化圏は一時間足らずで結ばれている。その結果、日南(飫肥)文化圏は宮崎市に蚕食され、言葉も考え方も昔と微妙に変化した。

 私は小学六年に宮崎市へ引っ越した。私は宮崎市の言葉や文化が嫌で頑なに拒否した。
その結果、宮崎弁を飛び越え、標準語を身につけてしまった。
東京には宮崎を売りにした居酒屋が多くある。宮崎出身の友人たちに誘われて行ったことがあるが、店主が馴れ馴れしく宮崎弁で話しかけて来るのが嫌で、二度と行かない。

 久留米出身の母と博多出身の父がなぜ辺境の大堂津へ移り住んだかよく聞かれる。私が生まれたのは昭和二十年一月、疎開先の日田市豆田の産婦人科医院だ。敗戦後、母は大堂津の親しい知人たちから「こちらは米だけはないけど、魚も野菜もたっぷりある」と熱心に誘われた。それで我が家は、私の誕生前に大堂津へ引っ越して来た。

小学五年までの多感な少年時代を大堂津で過ごした。小学校では何を描いても五点満点の評価を受けた。そのおかげで、絵に対する絶対的な自信がついた。
小学校二年の冬だったか、円を二個描いて「お供え餅」だと提出すると、先生は「大変良くできました」と満点をくれた。その時は子供心に、少しやりすぎだと思ったほどだ。もしそれが、宮崎市などの都会だったら、級友たちからえこひいきだと非難されたはずだ。しかし、誰もおおらかで、嫌な思いをしたことは一度もなかった。

後年、教育の専門家にその話をしたことがある。
「それは理想教育だ。才能を育てるのに絶対的な効果があると分かっているが、義務教育で特定の子供を特別扱いすることは難しい」
彼はそんなことを話した。

小学六年から暮らした宮崎は自分の陰影を形成した土地だ。私は現実を否定するように、絵や映画や散歩に熱中した。人格や才能は陰陽バランスよくあって、巧く形成されるもののようだ。


 路線バスが鵜戸神宮に近づくと、小学生の女子二人が乗車してきた。
「よろしくお願いします」
大きな声で運転手に声をかけたのがとても可愛かった。
殊にその一人は東京ならスカウトが声をかけそうな程にスタイルも良かった。
どうやら、路線バスはスクールバスを兼ねているようだ。


二人の少女はともに目鼻立ちがはっきりした縄文系だった。
今回の旅行で気づいたが、日南地方は目鼻立ちのはっきりした美人が多い。全国各地から寄せ集めの新興都市の宮崎市とはかなり違う。それは陸の孤島のおかげで、縄文の血が薄まらずに残っているからだろう。

 日南市油津のバスターミナルへは十六時に到着した。
私の記憶にあるバスターミナルは大勢の乗降客がいて、いつも大混雑していた。
しかし、建物は廃屋のようにガランとして誰もいない。明るい日差しが差し込む待合室が虚しいほどだ。独り呆然としていると、掃除の小母さんが来て丁寧にトイレの掃除を始めた。堀川運河と乙姫橋方面へのバスについて聞くと、懐かしい日南訛りで親切に教えてくれた。腰が曲がったおばあさんだったが、見上げた顔は品の良い日南の顔立ちだった。


 バスが乙姫橋に近づいたので立ち上がると「バスが止まってから席を立ってください」と運転手に注意された。ついつい東京のせっかちなくせが出てしまう。乗客は老人ばかり四、五人で慌てて乗降する必要はなかったようだ。
乙姫橋は堀川運河にかけられた石造りのアーチ橋だ。堀川は飫肥藩によって作られた運河だ。それは港の一部で、昔は飫肥杉のいかだや漁船が繋がれていた。今は泥が堆積して、その機能は失われている。その一帯は一九九二年作「男はつらいよ・寅次郎の青春」の舞台に選ばれた。その時のマドンナ役は風吹ジュンだ。それから二十五年を経て、映画に登場した風景は乙姫橋と堀川の護岸を除き、ほとんどは失われた。


A0_1

1973年乙姫橋。
左手の建物に日南観光釣りセンターと看板がある。


A0_2

堀川上流、酒谷川からの取水路方面。
まだ漁業が活気があった時代だ。


乙姫神社にお参りした。記憶では明るく陽が燦々と差し込んでいるイメージがあったが、樹木が鬱蒼と生い茂り、鶯が鳴いていた。社殿が現代的なコンクリート作りに変わっているのは興ざめだった。その間、地元の人には全く出会わない。少し休んでいると、台湾から来たらしい家族が現れたが、すぐに去って行った。


その夜の日南かんぽの宿での会食の後、カラオケへ出かける友人たちを見送り、自室に戻り、翌日の大堂津小学校での講演原稿を考えていた。開け放った窓から、宿の下を流れる酒谷川の清流からカジカガエルの澄み切った声が聞こえた。不意に、父の土木会社のオンボロトラックで、酒谷川の河原へ土木工事用のグリ石を採取に来た時のことを思い出した。昔のトラックは小さくて雑で、運転席床板の隙間から浅瀬の水の流れが見えた。


 翌日、大堂津小学校で子供たちや父兄たちに絵について講演した。私は伝統技術が専門で講演依頼が時折ある。その時の聴衆は専門家ばかりで、難解なテーマでも問題なかった。しかし、子供たちはそれぞれの個性も興味も違い、全員を飽きさせずに話すことは至難の技だった。改めて、多様な子供たちに飽きさせずに教えなければならない、公立小学校の先生の大変さを実感した。

講演の後、旧知のお年寄りたちに会った。どの方も九十過ぎで、昔のままの大堂津弁の訛りを聞いていると、初めて郷里に戻って来た懐かしさが溢れた。

その後、大堂津駅へ向かう途中、細田川の堤防へ寄り道した。昔は堤防に小型の機帆船がたくさん繋がれていた。今は油津の堀川同様に泥が堆積していて、昔の面影はなかった。意外だったのは思っていたより川幅が広く、水が澄み切っていたことだ。堤防から川上の私たちが住んでいたあたりを眺めているうちに「うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川」を無意識に口ずさんでいた。


 宮崎市在住の井上氏が宮崎空港まで車で送ると言うのを固辞して、大堂津駅へ向かった。町中では、人にもツバメにもスズメにも犬猫にも出会わなかった。主要産業だった漁業が衰退すると動物たちもいなくなってしまうようだ。

宮崎行き列車の到着は一時間後だ。
大堂津駅裏の無人の海水浴場へ出て、休憩所のベンチに横になり空を見上げていた。
トンビが一羽、上空を舞っていた。それが大堂津で見た最初の生き物だった。
町並みはすっかり変わってしまったが、波音だけは昔と同じだった。
午前中の好天は、その時間になると雲が垂れ込め、雨がポツポツと落ちて来た。
慌てて大堂津駅へ戻った。

続きは日南紀行あとがき。17年6月4日へ。


Img_2

6月23日夕日、日没は午後7時。
右下は新幹線と埼京線の荒川鉄橋。
雨だとの予報は外れ、乾いた好天だった。
癌闘病中だった小林麻央さんが昨夜死去したことを知る。享年34歳。
彼女は「恋のから騒ぎ」以来親しんできた。
幼い子供を残して逝く母親の気持ちを思うと辛く悲しい。


Bs_3

20日の風雨の荒川


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

2017年6月15日 (木)

病院の美味しいコーヒー、そして様々な離別。17年6月15日

毎日のように東京北医療センターのカフテリアでコーヒーを飲んでいる。
静かで雰囲気がよく、疲れが取れる。


M_17


目の前は病院への通路で、午後遅くは見舞帰りの客が通る。
産婦人科が充実しているので出産祝いの客は多い。
彼らは華やいでいるが、病気見舞いの客は足取りが重い。

昨日は80代半ばの長身の老人がトボトボと過ぎて行った。
右手に杖、左手に着替えなどを詰めた買い物袋。
世話をしてくれる人がいないようで、なんとなく薄汚れ、後ろ姿は寂げだ。
入院しているのは彼の老妻で、病状が芳しくないのかもしれない。


M_9

病院庭の小さな花。


毎日、先に逝った肉親や友人たちを思い出している。
母が生きている頃は、まだ上があると思っていた。しかし、死別すると次は自分との思いが強い。死は恐れてはいないが、自分の老いを痛感することが増えた。

別れは死別だけではない。
老いや病による意思疎通ができなくなる別れもある。
死別ほどではないが、こちらもかなり寂しい。

母との死別後、間もなく8年目に入る。
これからの8年はさらに早く過ぎて、気がつくと80代で死の足音が間近に迫っているだろう。一生を1年に例えると今は12月に入り、かすかにジングルベルが聞こえるあたりだ。


M_16x_2


夕刻に強烈な雷雨がやって来るとの予報だったので。5時前に帰宅した。
北方遠く埼玉上空に巨大な雷雲が見え、かすかに雷鳴が聞こえた。

日差しがあるが空気は冷んやりとしている。
この透明感は葬儀の後の静けさに似ていると思った。


M_16


ヤマモモが熟すと母の命日は近い。

母の終末期の頃、夜になると1時間おきに私を呼びつけ、ほとんど眠れない日が続いた。
体力は限界を超えて、このままでは倒れると覚悟していた。
ある日の昼間、疲れ果てて自室で横になっていると、ほとんど歩けない母が手すりを伝ってやって来た。
「どうしたの」と聞くと
「ああよかった。静かだからマサキがいなくなったのかと思った」
母は安堵したように言った。
その時は、母の世話が嫌になって私が家出したのでは、と勘違いしたのだと思った。
「世話のかかる親を置いて、出て行くわけがないだろう」
私は怒ったように答えたが、母は何も答えなかった。
それから間もなく母は死んだ。

今思うと、母の私への信頼感は強く、私が家出するなどとは微塵も考えなかったはずだ。
本当は私が倒れて死んだと思ったのかもしれない。
母は呼吸不全と心不全により、極度に酸素飽和度が低く幻覚がよく起きていた。
しかし、驚くほど頭は冴えていて認知症はなかった。
だから、私が疲れ果てていることはよく承知していて、それを母は気に病んでいた。


その後、母は1週間ほど寝たっきりになって7月1日に逝った。
母は私に負担をかけないために、自ら命を縮めたと今も信じている。
インデアンの老人が「今日は死ぬのに良い日だ」と言って死ぬことを、それ以来信じるようになった。


夜の荒川土手の散歩は心地よい。
今年の梅雨は涼しく夜風は寒いくらいだ。風の強い夜の浮間が池の森のざわめきは心地よい。深夜まで、ジョギングやウォーキングの人が途絶えないのは、それらの自然の素晴らしさを知っているからだ。

土手上から家々の明かりを眺めるのもいい。
一つ一つの明かりに幸せな家庭があると想像すると、心が暖かくなる。
母も同じことを話していた。
夜汽車が農村地帯を行く時、田んぼの中に転々と明かりが見える。
その時、一つ一つに幸せな家庭があると思うと暖かい気持ちになる、と母は話していた。


M_14


先週、明治神宮へ行った。
噂通り、外人ばかりだった。
日本人は少数で、自分が異邦人になったような気分になった。

その後竹下通りへ行った。
こちらは人種が溶け混ざっていて、楽しかった。


Ma_1


総務省の新しいイノベーションへの提言へ応募するための説明会へ出席した。
その時の女性官僚。
やや意地悪くデフォルメしてあるが、本当は好人物だ。

日南紀行は膨大な量を書き上げているが、アップする気になれない。
地方と東京の格差。簡単に語れない重さがある。


M_13

締め切りが次々と迫っているのに、よく出かけている。
先週は友人に誘われてお台場へ行った。
郷里の海とは違うが、東京の海も好きだ。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

|

2017年6月 4日 (日)

日南紀行あとがき。17年6月4日

日曜の駅への道を若い男女が歩いていた。
昨夜は一緒に過ごし、どこかへ遊びに行くところだろう。
女はスタイルもセンスも良く、とても可愛い。対して男は小太りの体を細めに見せようと黒の上下。どう見ても女の方が魅力がある。

女は甘えるように男の手を握ろうとした。すると男は髪をかき上げるふりをしてその手を避けた。ムッとした女は男を追い抜きプンプンと先を行く。男は慌てて追いかけ横に並んだ。

逃げたり追いかけたりと恋愛は忙しい。
それが恋の醍醐味で、若い頃はその煩わしさが楽しかった。
帰り道、荒川土手にサイクリングに来ていた中年夫婦が川向こうの河口方面を眺めながら休んでいた。二人はベタベタくっくわけでもなく会話もないが、互いの信頼感が遠目にも分かる。その絶妙な距離感がとても良い。先の男女がそのようになるには20年は紆余曲折を繰り返す必要がありそうだ。


60年ぶりの日南市大堂津への帰郷で大勢の旧知の人たちに会った。
帰京後も様々人と会う機会が多く躁状態になっていた。
躁は初めは新鮮で楽しいが、一ケ月近く続くと重苦しくなって軽い鬱に替わる。
その重苦しさから脱するには人と会わないのが良い。
一人散歩の孤独感は安らぐ。
いつものコースを散歩し、好きな場所でぼんやりするのが良い。
ぼんやりと夏空を見上げていると嫌なことを忘れる。


郷里では二日に渡って古い友人たちと会い、子供たちや父兄を前にして講演した。
その様子は宮崎日日新聞に写真入りで掲載された。
終わった後、友人たちが宮崎空港まで車で送ると言うのを固辞して、大堂津駅で列車を待った。

大堂津駅は無人駅となっていた。
戦前の建物は実にしっかりと作られている。
見かけは廃墟だが傾きも雨漏りもない。
しかし、ひさし下のベンチは風雨に晒され染みだらけだ。
誰も使った形跡のないベンチに腰掛け、雑草生い茂る鉄路を眺めながら1時間に1本の宮崎行きの列車を待った。

ホームで列車を待つ者は一人もいなかった。
暗い曇り空から、時折、大粒の雨がバラバラと落ちては過ぎて行った。

昭和20年代、その小さな駅に駅員が5人はいた。
駅舎脇には国鉄の官舎があった。
貨物引き込み線のホームではマル通職員が干物の箱や塩辛の樽をムシロと荒縄で巧みに梱包し、山のように積み上げていた。


M_5


駅舎の軒下でスコールを避けていると、不意に60年前の賑わいが蘇った。
当時の駅は町の社交場で、老人たちは孫の手を引いて機関車を見に来ていた。
子供だった私たちは肉親や知人を待つだけでなく、下車する人を物珍しく眺めていた。

列車を待つ間、"You Raise Me Up"を聴いていた。
歌詞がとても心に響く。繰り返されるYouは、それぞれの、伴侶、恋人、家族、そして心を癒してくれる自然だ。曲を聴きながら荒れ果てた線路を眺めていると切なくなった。

2両編成のディーゼルカーの乗客は私を含めて5人だった。
次の油津駅に着くと、先生に引率された100人ほどの小学生が乗車して賑やかになった。
私の前に10歳ほどの女児二人が腰掛けた。彼女たちは宇宙人を見つけたように、見慣れない風体の私をまじまじと見つめていた。日南では、パナマ帽の大人など珍しいのかもしれない。

「ぼくは絵描きだよ」
タブレットで作品を見せると、周囲の子供達がワッと集まって覗き込んだ。
「本物の絵描きさんに会えてよかったわね」
引率の先生が子供たちにお礼を促した。
子供たちは元気よく「ありがとうございます」と次の飫肥駅で下車して行った。

車中が急に寂しくなった。
農村地帯の北郷に入ると列車は雨の広瀬川沿いに走った。
護岸工事がしていない昔のままの清流が懐かしい。
時折、線路際まで生い茂った照葉樹林の枝が車窓をバタバタと打った。


青島駅で途中下車した。
青島駅は無人駅になり、土産物屋の通りは廃墟になっていた。
観光客どころか人っ子一人歩いていない。
駅では人がいないのを幸いに、台湾から来たカップルが濃厚なキスをしていた。


Ma_10


このような寂しい青島を撮るのは昔は無理だった。
60年前は宮崎交通創業者岩切章太郎氏が南国化に大成功した時代だった。
全国各地から新婚旅行カップルが大挙押しかけ、青島は毎日が祭りのように賑わっていた。

宮崎空港で飛行機を待つ間、県の観光課トップを務めた友人と食事をした。
「フェニックスやワシントニアパームは即刻伐採して宮崎本来の在来種、ビロウやソテツと植え替えるべきだ。本物の熱帯へ誰でも安価に行ける時代に、偽物の南国では人を集めることはできない。本物の自然の照葉樹林や昔のままの広瀬川の清流を売り出すべきだ」
そんなことを力説したが
「過去の成功体験にしがみついている観光業界にそれを理解してもらうのは大変なことだ」
彼は力なく応えた。

帰りの飛行機では爆睡し、目覚めると羽田だった。
東京は好きだ。
いつもの散歩コースを歩いていると落ち着く。

今も様々な思いが渦巻いていて、後に書くべきあとがきを先に書いてしまった。次回は本文の日南紀行を記入できるだろう。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

2017年5月22日 (月)

日テレ「スッキリ」にちょっと出た私「破り捨てられたカード」の真相。 17年5月22日

夏のような日々が続くが、5月の暑さは心地よい。
耳元をさわやかな風が過ぎる。
いつもの公園で休むと、シデノキの梢が優しく青空を撫でていた。
青空が美しいのは、沢山の人の思いを受けとめてきたからかもしれない。
公園脇の道を、皆暑そうにうつむいて歩いている。立ち止まって空を見上げれば心が晴れるのに、誰も空を見上げようとしない。この素晴らしい5月の空と新緑を知らずに過ごすのは惜しいことだ。


先日、赤羽駅前で散歩中の私は日テレのワイドショー「スッキリ」のインタビューを受けた。今朝、二度寝から目覚めて「もしかして」とテレビをつけると、唐突に私が映し出された。テレビで自分の姿や声を聞くのはとても嫌な氣分だ。
昔、FM東京の音楽番組で自然について語ったことがあった。後日送られてきたそのテープは机の引き出しの奥にしまい込まれ、15年間恥ずかしくて聞くことができなかった。業界人ならともかく、普通の者には客観的な自分を見せつけられるのは身をよじるほどに恥ずかしいものだ。

いつ放映かは聞いていなかったし、期待はまったくしていなかった。その通りに放映された私は見るに耐えなかった。重要エピソードはザックリとカットされて品なく変更され、紹介作品の色味もひどかった。「放映される」と知らせたのは親しい数人のみで、大ぴらに知らせなくて本当に良かったと思った。

昔、NHKで取り上げられた時はもっと長く真摯で丁寧だった。しかし、民放ワイドショーではこれが限界だろう。


Mj_1

番組のタイトルは合コン参加だったが、そんなものに私は一度も出席したことはない。
描かれた私はまるで別人で、本当の私はもっと品格がある。
上画像で着ているネルのシャツはバブルの頃に買った。
今の貧乏絵かきの金銭感覚では高かったが色あせも傷みもない。高い品は結局は安い買い物になる。

インタビューされた時間は15分ほどだ。
その時答えた真相は以下のようなものだった。


  "破り捨てられたカード"

28年前、まだバブルの余韻が濃厚に残っていた頃のことだ。
その年の晩秋、親しい画廊主に連れられて3人展のオープニングパーティへ出かけた。
3人はモダンアートでは海外でも広く認められていた若手作家たちだ。
銀座のモノトーンで統一された広い会場にはテーブルがいくつも設えられ、高級ワインや料理が並んでいた。

当時、私は44歳だった。
前年の43歳の時、私は友人たちが必死で引き止めるのも聞かず、高給の仕事を捨てて、
「絵描きになって野垂れ死する」と宣言して絵描きに転向した。

絵描きとしての実績は何もなかった。
人と違っていたのは、10代後半に受験勉強を一切せずに、毎日、10時間以上絵を描いていたことだ。だから、25年以上の空白があったにもかかわらず、プロとしての技量は完成していた。

25年の空白期間の仕事は伝統工芸の彫金職人と雇われ会社役員だった。
職人仕事はとても恵まれていた時代で、月に10日働けば一般の3倍は稼げた。
会社役員の頃はバブル真っ只中で、さらに高給で生涯最高の自堕落な生活を満喫できた。


Mj_2

番組で紹介された写真は44歳とされていたがデジカメによる自撮りなので、パソコンを始めた1999年・54歳だと特定できる。幸い若く写っていたので44歳として使ってもらった。
背景の作品は「夏の終わりに」。絵描きとして認められるきっかけになった作品。
思い入れ深く、売らずに今も手元にある。


Mb_7

こちらが実際の44歳の私。
場所は青山で開催した最初の個展会場。
この個展で前述の画廊主と知り合った。
「スッキリ」の再現イラストの私はこの画像を参考に描かれている。
この縞のTシャツは今も着ている。しかし、28年も着続けると首回りが伸びきってしまう。だから着る時は後ろ前にして上着を羽織りごまかしている。

Mb_1

Mb_2

職人時代の37年前に作ったバック。
目立とうと、そのパーティーに肩から提げて行った。

バックは調理用のステンレスボールを2個利用してサバイバル用に作った。
当時の私は関東大地震が明日にでも起きると固く信じていた。
地震が起きたらバックを開き、ヘルメットとして頭に被り、ビル窓が砕けて舞い落ちるガラス片から頭部を守ろうと、本気で考えていた。

バックの中には、外出用の小物とともに、脱出用のロープや防煙簡易マスクなどが収納されていた。長さ1メートルの肩ひもは厚いビニール菅に耐荷重700キロのステンレスワイヤーを封入したものだ。開いたバックを加えると1,5メートルの長さになり、非常時にはそれを利用して階下へ脱出することができた。


パーティー会場の人たちは、今まで付き合った経験のないアート系やマスコミ関係が多く、私は田舎出の娘のように緊張していた。
手近なテーブルを選び、私は好物の生ハムをほうばりシャンパンやワインをがぶ飲みしていた。

「面白いバックですね。何が入っているのですか」
隣に立っていた若い女性が話しかけてきた。
私は複雑な機構のロックをガチャガチャと外して頭にかぶって機能を説明した。
すると座は一気に盛り上がり、人だかりができた

私は調子に乗って周りにお愛想を振りまきながら、
素早く「売れない絵描きです」とバックに入れてあった作品カード5枚を彼女に手渡した。彼女からは私立美術大助手と記された名刺をもらった。

彼女はしげしげと作品カードを眺めていた。
「"夏の終わりに"はビエンナーレで賞をとりました。
ライオンとキリンは先日売れたばかりです」
私は嬉しそうに自分の話をした。
本当の当時の自分は貧しく、時には電車賃節約のため、赤羽から歩いて池袋まで画材を買いに行ったほどだ。
自慢を聞いていた彼女の顔が「何だ売れてる絵描きじゃない」と曇ったはずだが、当時の私はまったく気付かなかった。私は図に乗って、この1年はあちこちの大小の公募展に片っ端から応募して賞金総額が200万近くになった、とかなり事実を盛って自慢した。

本当の私は自慢好きではない。
むしろ謙虚なくらいだ。
自慢相手がいつも飯を奢ってくれる裕福な友人たちなら、
「そんなに儲かっているなら飯代はお前が出せ」と容赦なく突っ込んでくれる。
だから、いつも安心して自慢話ができた。
しかし、彼女は生真面目に私の怪しい話を信じていた。


Mb_6

「このライオンの絵の空の緑、綺麗ですね」
彼女はやっとカードの批評を始めた。
「色が綺麗なのは印刷屋の力で、私の技量ではありません」
私は謙虚に答えた。
「この木はカリフラワーみたい。
カリフラワーって動物の内蔵みたいで、描いていて気持ちが悪くなりません。
それにこのライオンの足、解剖学的に変ですよ
あなたの立体は評価するけど、平面はちょっと素人ね」
彼女は厭な作り笑いをしながら、両手でライオンのポーズをして見せた。

言葉の節々にトゲを感じた。
だがそのくらいの言葉で傷つくようでは絵描きにはなれない。
「わあっ鋭い。さすが美大助手ですね」
彼女を褒めて、何とか和ませようとした。

何を話しても彼女の笑顔は凍ったままだった。
私は気まずくなってその場を離れた。
バックのおかげで、会場のあちこちで声をかけられ、綺麗な人たちから10枚近く名刺を手に入れた。
その内の何人かとは、翌年、ディズニーランドへ行った。

パーティーは予定時間を超えて続いた。
私は居残って、仲良くなった女性スタッフの掃除を手伝った。
その時、初めに着いたテーブルの下を覗くと、私があげたカードが5枚とも破ったり折ったりして捨ててあった。私はスタッフに見つからないように急いで捨てられたカードをポケットにしまった。

帰りの電車は憂鬱だった。
今も、窓ガラスに映った暗い顔の記憶が残っているほどだ。

パーティーの1ケ月後に彼女へ年賀状を出した。
松の内が過ぎた頃、普通切手が貼られたそけっけない年賀状が送られてきた。
その後、幾度か作品展案内を出したが彼女は来なかった。
年賀状は数年後には立ち消えになり繋がりは完全に切れた。

今も彼女を覚えているのは、プライドを傷つけてしまったとの反省があるからだ。
それ以来、女性にカードを渡す時は
「帰りに捨てたくなったら、こっそり駅のゴミ箱に捨ててね」と付け加えることにしている。


そのようなことがあってもめげずに、招待されると嬉々としてあちこちのパーティーに出かけた。そして、いつものように余計なことを喋りすぎて、帰りの電車で憂鬱になった。

この性癖は72歳になった今も変わらない。
先週土曜日も銀座のオープニングパーティーへ出かけて、シャンパンを飲み調子に乗り過ぎて「よしなさい」と売れっ子画家の美しいMさんにたしなめられてしまった。
「飲んで喋らなければ良い人なのにね」
彼女にはいつも注意されている。
しかし、この性癖は死ぬまで治りそうにない。


Mj_3

番組で紹介された現在の私。
描いている作品は先日納品した「T氏像」F8号、画材・リキテックスソフトタイプ。


M_9

徹夜で描いて九州へ持参した。
そのエピソードは次回記す。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

2017年5月16日 (火)

最近、痴漢絡みの電車ダイヤの乱れが多い。17年5月16日

痴漢で線路上へ逃げてダイヤが混乱する事件が連発している。
昨日15日20時15分、東急田園都市線青葉台駅の下り線の線路上で30代の男性が列車にはねられた。
「痴漢行為があった」と連絡受けた駅員が事情を聴いていると男性は痴漢行為を強く否定して線路に飛び降り、背後から来た電車に跳ねられた。亡くなったので真相はわからない。捕まったら100パーセント有罪にされるので、手段を選ばず逃げろ、とのマニュアルが痴漢仲間で広がっているようだ。

ニュースを聞きながら母の介護をしている頃を思い出した。
10年ほど昔、渋谷の画材店で買ったロール巻きのキャンバスや絵の具などの大荷物を持って埼京線に乗った。埼京線は昔から痴漢が多い。電車は空いていたが、入口脇の手すりに寄りかかって大きな荷を支えながら立っていた。

次の新宿で女子高生3人組が乗り込んで来て、私の前でお喋りに夢中なった。電車が揺れるたびに彼女たちはふらつき、背を向けた一人の背が私の画材に触れた。その都度「触ったわね」と言った視線で彼女は私をにらんだ。
「荷物に触れるのが嫌なら、空いているんだから離れたらいいだろう」
強く言うと、彼女たちは文句を言いながら離れて行った。
もし、痴漢の疑いをかけられたら警察に連行されて拘留され、母の世話ができなくなる。連行されればしばらく帰宅できず、施設に預けられたとしても母はショックで体調が悪化し取り返しがつかなくなる。
この時代は冤罪でも、連行されたら100%有罪になっていた。それ以来、女性の隣には絶対に立たず、監視カメラ近くで顔と両手が見えるように立つようにした。

今年4月10日、千鳥ヶ淵での花見帰り地下鉄南北線に乗った。
電車は超満員で私の前に化粧の濃いグラマーな女性がいた。黒皮のミニスカートにはアンバランスな地味な顔だ。私は踏ん張って常に彼女から20センチほど隙間を空けておいた。しかし、電車が揺れるたびに右手に下げたリュックが彼女の足に触れたようだ。左手はつり革を掴んでいるので触れようがないのに彼女は幾度も私をにらんだ。
危険を感じ「誰もあんたなんか触っていないよ」と大きな声で言った。
周りの男性たちは同意するように笑顔でうなづいていた。女性は大人しくなって俯いた。赤羽が近づいて空いてきたので女性から離れ入口へ移動した。

今日の痴漢事故死のニュースを聞きながら、それらの出来事を思い出した。
最近、監視カメラの下で両手を上げて立つ男性が増えていると言う。私と同じ不愉快な思いを経験している男性が多いのだろう。家族持ちの男性が痴漢の疑いで長期拘留され有罪判決を受けると家庭は崩壊する。仮に冤罪が判明しても、失ったものへの保証はない。

現実には圧倒的に痴漢被害の方が痴漢冤罪より多い。しかし、冤罪は家族を路頭に迷わせて人生を狂わせるほど被害は大きい。満員電車で不愉快な思いをしているのは女性だけでないことをぜひ知ってほしい。


私が電車に乗るのは月に1,2度だ。しかし、痴漢をしそうな人は何となく分かる。通勤に疲れ果ててホームに立っている男性たちの中で、妙に生き生きと目が輝いている男がいたらそうだ。彼らは目的の女性に目をつけるとぴったり体をつけて満員列車に乗り込む。

私が見た変な痴漢二人。
車中でしゃがみこみ、女性の尻の匂いをうっとりと嗅いでいた30代の男。
もう一人は私が若い頃の赤羽線。
少し混んでいる車中で私の肩に顎を乗せて喘いでいるおじさんがいた。
後者は思い切り肘で突いてやった。

女性知人に聞いた痴漢の思い出。
小学生の頃、友達と近所の神社へ行くと白い子ウサギを抱っこした男性がいた。
「わー可愛い」と駆け寄ると子ウサギの姿がちょっと変だ。それは男性の股間あたりにいて、よくよく眺めると大事なところを包帯でクルクル巻いたものだった。
二人はすぐに「キャー」と逃げ出した。

もう一つは彼女が女子高生の頃の友人の話。
友人は強い近視だが、美容上メガネをかけない。
入口脇の席に腰掛けていると、脇の手すりに男性が指をかけていた。
「すごっく太い指」と思って、しみじみ眺めると爪がない。
下車してからも「変な指」と考え続けて、やっとそれが指でなかったことに気づいた。
女子高生の皆さん。近眼だったら外でもメガネをかけましょう。

九州行きの話は次回書きます。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

«締め切り前で繁忙 17年5月9日