2017年7月18日 (火)

今を評価しているなら、どのような過去も否定してはならない。運命は過去の小さな違いで大きく変わる。17年7月18日

午後3時、激しい雷雨が過ぎて行った。
池袋では猛烈な風とともに5センチほどの雹が降って屋根に穴をあけた。
その激しさは走行中の高級外車の数十カ所を凹ませるほどだ。
赤羽では地面が少し濡れ気温が下がったので散歩へ出かけた。


聖路加国際病院名誉院長・日野原重明氏が亡くなった。
氏は胃瘻などの延命措置は全て拒否して自然死を選んだ。
「辛いところはないですか」
終末期に担当医が聞くと「辛いところはない」と首を振られるだけだった。

母にも同じことを聞いたことがある。
母は「良い気持ち」と笑顔で首を振っていた。
高齢者が自然死を選べば、脳内麻薬の多幸感の中で逝くことができる。

7,8年前のことだ。
私が担当している日本生命倫理学会の表紙について「画料を上げなさい」と氏が担当者に進言された。お会いしたことはないが、進言通りに画料は増額されて、以来、親しみを覚えた。テレビで拝見する氏は大変お元気で、いつまでも亡くならないのではと錯覚したほどだ。
今日、訃報を耳にして、人は誰でも死ぬものだと痛感した。
心から合掌。


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赤羽自然観察公園の田圃。


夜中に背中が苦しくて目覚めた。
タオルケットが暑かったからかもしれない。
冷たい水で汗を流し、汗ばんだシャツを着替え、再度床に就くと胸苦しさはすぐに治った。

体の不調は日常的に起きている。
食道あたりの不快感、体の節々の痛み、常にどこかが傷んでいる。
しかし、気にはしていない。
それは母の介護をして、老いとは痛くて苦しいことだと学んだからだ。

生活保障がない身なので、生涯現役に努めている。だから、同年齢の知人たちより元気に行動する他、生きるすべはない。残り少ない人生に最後の一矢を報いたいと思っている。


若い頃の自分を思い出すと恥ずかしくなる。
しかし、残り時間は少ない。
後悔すれば貴重な時間が無駄になる。
老いたら後悔したりせずに、好きに過ごすのが良い。

若い頃にもっと勉強していたら、と反省することがあるが、無為に過ごして来たわけではない。
勉強する代わりに、人の数十倍は絵を描き、人の数倍は散歩して来た。
もし、猛勉強していたら、安定した老後を迎えられたが、今の自分はない。
貧乏でも今の生き方が最善だと信じている。

いくら才能があっても絵描きにはなれない。
才能以上に運が必要だ。
もし、自分に運がないと思ったら、今までと違うことをしてみることだ。例えば、家を出る時に右足から出るか左足から出るかだけで、その後の人生は変わる。過去に違うことをしていたら、運命は変化して、今の自分はない。もし、今の自分が好きなら「あの時こうすればよかった」と反省するのは無意味だ。


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池袋のサンシャイン通りで見かけた男女。
女性は10代。男性は20代前半だろう。
カップルというより、仲の良い友達関係に見える。

好き嫌いは別にして、どんな格好をしようと自由だ。
原宿ファッションが大好きで日本に住み着いている外人の女の子が「日本は服装が自由だから好きだ」と話していた。彼女の言葉は、このような男の子のことを言うのだろう。
彼は年取ってから、この頃を思い出してどう思うのだろうか。
「平気だ」と開き直るほどでもないし、後悔するほどでもない。
淡々とその歳を生きれば良い。


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毎日、電車で出かけている。
土曜は浅草へ出かけた。
以前よりさらに外人が増え、伴って人力車も増えていた。
車夫は若者ばかりで、女性も混ざっていた。
彼らは日に焼け鍛えられた肉体を誇らしげに陽光にさらしていた。
若者たちがその職を選んだのは、江戸の粋を踏襲したファション性にあるのかもしれない。楽ではない仕事を選ぶ若者の多さは、日本のとるべき方向を示しているように思えた。


自由な時間に誰にも支配束縛されない人間関係。
若者たちを惹きつけるのはそのような仕事だ。
時間を犠牲して得られた豊かさでは幸福は得られず、後で後悔する。
幸せにとって、金銭的な豊かさより心の豊かさは大切だ。


AIはこれまでの職種を半減させる。代わりに新しいプログラマーなどの仕事が生まれるが、優秀なものが少数いれば済む職種で、失った員数を埋めるほどの容量はない。重要なのはそれが人として魅力がある仕事かどうかだ。その点、昔ながらの手仕事や力仕事は人間的で魅力がある。


帰りはアメ横に寄ってアーモンドとドライフルーツを買った。
帰りは高崎線を使った。
赤羽までは尾久に停車するだけで早く到着する。
さすがに乗客のほとんどは日本人ばかりで、なんとなくホッとした。
別段、排他的なわけではない。
この安堵感は懐かしさのせいだ。
隣町の十条に安堵感を覚えるのも、同じ理由だ。


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5時半に日陰に入る公園のベンチで毎日お茶を飲む。
緑陰の涼風が心地良いが、最近、蚊が増えて閉口している。
今日も数十匹に群がられて、耐えきれずに逃げ出した。


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Goof

Mas

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2017年7月 6日 (木)

過剰治療をしない欧米の高齢者の終末医療。九州に帰郷してから東京の風景が懐かしく見える。17年7月6日

欧米での高齢者の終末医療についての記事。
それによると、スウェーデンでは高齢者が肺炎を発症しても抗生剤を使わない。
高齢者が肺炎を繰り返すのは自然な成り行きで、たとえ治癒してもすぐに再発し、苦しみを長引かせてしまうだけだ。だから無用な治療はしない。
同じ考えで、尿が止まっても利尿剤を使わない。
それどころか看護師が血圧や尿量を調べることもしない。
その他にも昇圧剤(終末期に極度に下がった血圧を上げる薬)、点滴、経管栄養、血液透析、人工呼吸器装着などもしない。
ちなみに、それらの治療は日本の病院では当たり前のように行われている。

オーストラリアの特別養護老人ホームでは、高齢者が弱っても口から食べ飲むだけに限定する。そのように対処すれば約2週間で自然死し、寝たきり老人は生まれない。
オーストラリア政府の緩和医療ガイドラインには「無理に食事をさせてはならない・栄養状態改善のための積極的介入は倫理的に問題がある・経管栄養や点滴は有害と考える」とある。そのように国が率先して延命治療からの離脱を指導している。

オランダの施設では終末期老人の尊厳のために点滴や経管栄養をしない。
オーストリアでは、終末期老人の食べない権利を認めている。
米国では更に衝撃的で、西海岸のある施設ではスプーンを口元に近づけることすら禁止している。

欧米で点滴や経管栄養をしないのは、終末期老人の尊厳を尊重しているからだ。その指針が医療費抑制にもつながっている。
日本では、そのような緩和医療はガンとエイズに限定されている。

私も終末期の母にそのように対処した。
往診していた家庭医も、無理に食べさせたり、水分補給をすると本人が苦しむからと、何もしなかった。だから、母は1週間で危篤に陥り、最期は医師を呼ばず一人で看取った。今でも、母の最期の呼気と心音を静かに確かめられたのはとても良かったと思っている。医師は母が逝った後に呼んで、死亡診断書を書いてもらった。

日本の医師は高齢者に義務的に無用な蘇生を試みることが多い。なぜなら、医師が何もしないと家族から医療放棄と訴えられたりするからだ。それで、高齢者に無理な治療をする姿勢が生まれた。

私の看取り方を非難する人はいなかったが、世間ではひどい子供だと非難する人がいる。それを恐れて入院させて骨と皮だけになるまで治療を続け、結果的に本人に多大な苦しみを与えている。
もし自然死なら脳内麻薬のエンドルフィンが分泌され、多幸感の中で本人は旅立つことができる。しかし、無理な延命をすると、エンドルフィンの分泌が枯れ、非情な苦しみの中で旅立つことになる。


ガン治療についての記述もあった。
昔から「ガンと闘え」と言われてきたが、統計では闘っても効果は全くない。むしろ、気にせず普通に暮らすのが一番延命効果がある。ダメなのは気にして鬱状態になることだ。こちらは目に見えて悪化し死を早めてしまう。

祖母は50歳の時に胃ガンと診断された。
しかし、本人は全く気にせず、治療せずに平気で暮らし、85歳まで長生きして肝不全で死んだ。
世話をしていた母によると、腹部に固いしこりを感じたが、全く大きくならならなかった。
昔はそのようなのんびりした老人が多く、祖母のような例は数多くあったようだ。

そのような祖母に接して来た母も自分のガンについてはほとんど気にしていなかった。
母は80歳の頃にガンが見つかり、80代は毎年のように手術をしていた。そして、90歳での肝臓ガンの大手術の後は「何が起きても何もしない」と自ら宣言して、97歳で心不全で死んだ。

記事によると、ガンは完治しない慢性病として捉え、共存するのが一番良いようだ。しかし、情報過多の現代、ガン宣告を受けながら平静に生きるのはとても難しい。


締め切りに追われ、半世紀欠かすことなくお詣りして来た6月30日、7月1日の十条のお富士さん詣でを忘れていた。お富士さんとは十条富士塚のお祭りの、地元での愛称だ。

先日、昼寝をしていて十条のMさんの夢を見た。
夢の中で、私は十条のMさんの家で飲み会をしていた。
ビールを飲み過ぎて葡萄棚のある縁側で涼んでいるとMさんがやって来た。
「仕事が忙しいの。たまには顔を見せなさいよ」
まだ若い元気な彼女が笑顔で話しかけた。

実際のMさんは母が死ぬ4年前、84歳で亡くなった。
目覚めてから、もうすぐお盆だと思った。
いつもはお富士さんのついでに、十条の雪峰院のMさんの墓をお参りしている。しかし、お富士さんを忘れていたので墓参りもしなかった。

その日の午後、早速十条へ出かけた。
日差しは強くて暑い。
十条銀座の酒屋でミネラルウォーターの大瓶とカップ酒を買った。

商店街のアーケードは冷房が効いて心地よかった。
十条は大型店が進出していないので、商店街が昔のままに賑やかだ。
それで最近はテレビ番組で取り上げられることが増えた。

裏道を進んで雪峰院へ出た。
墓石に酒をかけ、ミネラルウォーターで洗い流し、手を合わせていると気持ちが安らいだ。


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再度、裏道を辿って富士塚へ向かった。
住宅地の路地に昔風の八百屋があった。
赤塚不二夫の「もーれつア太郎」の八百屋にそっくりだ。
綺麗に並べられたトマトがとても新鮮で美味しそうだった。
買い物していたアラブ系の男性が女主人と楽しそうに話していた。
傍の電柱の街灯もなんとなく昔風の裸電球のように見えた。
その奥に銭湯が見える。
十条には昭和が色濃く残っていた。

静かな路地奥の樹木に覆われた富士塚を登って、頂上の小さな石の祠にお詣りした。
今まで懐かしさなど感じなかった街なのに、今回は不思議なほど懐かしくて感傷的になっていた。
もしかすると九州日南へ帰郷したことが影響しているのかもしれない。心の中で純粋培養されて来た郷里が現実に触れたために消え去り、懐かしさの時系列が大変動したのだろう。


今日は湯島天神へ出かけた。
古いお札などが沢山たまってしまったので、それを納めるためだ。
夏日差しが強いので、汗をかかないように休み休み歩いた。
上野公園から不忍池かけて、相変わらず外国人観光客が多い。


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弁天堂からの上野の山夏景色。
不忍池のハスが咲き始めて美しい。

おみくじを引くと小吉だった。
以前は凶ばかり引いていたので嬉しい。
一緒に金メッキの招き猫が入っていた。
様々な開運招福の像があるが、私は招き猫を期待していたので二重に嬉しかった。

不忍池端に宝くじ宣伝用の大型車が止まっていた。
スクラッチくじを5枚買うと200円が当たった。
最近、外ればかりだったので金運がもどったと思った。


十条での感傷がまだ残っていて、いつになく上野風景が懐かしく美しい。
湯島天神には受験生らしい若い女子が多く来ていた。
彼女たちは楽しそうに七夕飾りに群がり、短冊に願い事を書いていた。
最近都内各所で見かけるスタイル抜群の外国女性たちと比べ、日本女性たちがとても魅力的に見える。それは日本女性特有の優しい物腰のせいかもしれない。


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帰り道、いつものように東京北医療センター庭で休んだ。
夕暮れの風が心地よく、汗が引いた。
病院の屋上庭園上に積乱雲が見えた。

日差しは強かったが、荒川土手あたりで突然に雲が垂れ込め、住まいの玄関エントランスへ入ると同時に大粒の雨が落ちて来た。
またしても運がいいと思った。


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Goof

Mas

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2017年7月 1日 (土)

年月は猛スピードで過ぎていく。2017年7月1日

7月1日は母の命日。今日から死別8年目に入る。
その間に小林麻央は海老蔵と出会って結婚し、
幼い子供二人を残して慌ただしく旅立った。
そして今、彼女の死の話題はマスコミから消えた。
このスピード感は寂しく虚しい。

荒川土手に3年前から桑の幼木がある。
自然にあれば、見上げるほどに成長しているはずだ。
しかし、年に数回の草刈りで刈り取られ、今も30センチほどの背丈だ。

不運な場所に芽生えてしまったその桑を見ると哀れになる。
しかし、もし桑が話せるなら、
「俺を哀れむとは、お前は神にでもなったつもりか」
と言われそうだ。
桑から見たら人間だって哀れな小さな存在だ。
実際は、あと何年生きられるか分からない私より、小さな桑の木の方が長生きするかもしれない。


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7月1日18時30分
母の死んだ時刻だ。
その時は日が暮れて暗いと思っていたが、実際は日没に間がある。


先日のワイドショーで、北欧に嫁いだ日本人を紹介していた。
彼女の広く瀟洒な家を見て、ゲストたちは「素晴らしい」と歓声をあげていた。
ゲストたちの反応に、アジア人特有の西欧的近代へのコンプレックスを感じる。
私はあの衛生的な国で暮らしたいと思ったことは一度もない。
アメ横や秋葉原などのアジア的な混沌がない国での生活など考えられない。
もし暮らしたら1日で逃げ出すだろう。
ある社会学者が、北欧で社会福祉が発達したのは福祉なしでは生存が難しいほど自然が厳しいから、と話していた。


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東京北医療センターの庭にて。
病院隣に住むWさんは大の犬猫好きだ。
彼女とは豆柴ハルちゃんを通じての知り合いだ。
絵の手前で美味しく熟していたヤマモモはカラスに見つかり、丸裸にされてしまった。


世界的大企業東芝を苦境に貶めたのは東芝の天皇と呼ばれた西室泰三元社長の誤算にある。西室泰三氏は東芝の次に日本郵政社長になって再度大赤字を招いた。社長としての彼は倒産を招く妖怪と呼ばれるほど無能だった。

彼は東芝専務時代は優秀だったが、トップになってからは大失敗続きで社長の器はなかった。彼が招いた損失は東芝では1兆円超、郵政では4000億と言われている。いずれも独断専行で無理な投資を繰り返したことによる。

昨日、東芝のフラッシュメモリ事業売却について、フラッシュメモリー発明者・元東芝研究者で東北大名誉教授舛岡富士雄氏がNHKのインタビューに答えていた。彼は重要技術が流出する心配はないと話していた。なぜなら、とっくの昔に韓国のサムスンへ特許使用権の大半を極めて安価に譲ってしまい、もう隠すものは何も残っていないそうだ。そのような日本の手取り足取りの厚遇のおかげでサムソンは世界一の半導体メーカーに成長した。そのことを話す時の悔しさと無能な東芝幹部への怒りを滲ませた舛岡氏の表情が印象に残った。


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6月30日の夕焼け。
既に梅雨明けでは、と思うほどだ。
この少雨の梅雨では、夏場に渇水になりそうだ。


最近気になった医学ニュース。
昔は子供の乳歯が抜けたら、上の歯は屋根に放り、下の歯は縁の下に投げ入れていた。(上下は逆だったかもしれない)
私たちは、そのおまじないをすると強い永久歯が生えると信じていた。
それが今は違う。乳歯がぐらついたら歯科医院で抜いてもらい冷凍保存すると後で役立つ。乳歯を後で移植するのではなく、乳歯歯髄の幹細胞を利用するのである。子供の幹細胞はとても元気な上、歯の硬い組織にガードされているので遺伝子が傷付いていない。それで優秀なiPS細胞を作り出せる。永久歯でも可能だが、20歳以下の親知らずに限定されている。

歯髄の幹細胞は脊髄損傷治療に使われる。
19歳で事故に遭って脊髄損傷し、以来、感覚も運動機能も麻痺していた31歳の男性が、自分の親知らずの歯髄を使って再生医療を受けたところ2回の注射と点滴で体の感覚が蘇り、補助器具の助けで立ち上がることができるまでに回復した。

参考に、白血病治療に向いているのは骨髄や臍帯血の造血幹細胞。歯髄細胞は脳梗塞などの神経疾患、リウマチ、肝臓や腎臓などの臓器不全疾患に向いている。


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病院庭で見つけた四葉のクローバー。


釜山市の条例で領事館前の慰安婦像が永久保存されることになった。
その裏に北朝鮮に操られた市民団体・韓国挺身隊問題対策協議会の暗躍がある。日本政府は形式的に抗議をしたが、本心は勝手にしろとの冷めた受け止め方だ。これで韓国は自ら手足を縛ることになるだろう。

先日、NHKの人工知能の番組で韓国がロボット大統領を考えているとあった。歴代大統領が身内の利益のために法律違反を繰り返して来たことへの反省によるものだ。ロボットなら身びいきはしないから、不正をしないと関係者は期待している。

しかし、AIは正確な情報を学ばせないと正しい判断ができない。
韓国の子供や若者たちは、戦前日本の官憲がいたいけない少女20万人を強制連行して従軍慰安婦に仕立て、その大半を戦地で虐殺した、と学んでいる。そのような誤った歴史を植え付けたのは日本の朝日新聞や社会学者にも大きな責任がある。

ロボット大統領のアイデアは素晴らしいが、誤った情報を学ばせては実力は発揮できない。誤った資料では外交判断は狂い、韓国の未来は危うくなる。しかし、心配してはいない。すでに韓国はどうでも良い隣国になってしまったからだ。


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Mas


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2017年6月21日 (水)

日南市・大堂津紀行 17年6月21日

 五月十一日、朝まで郷里の大堂津へ持って行くT氏肖像画に手を入れていた。
二時間ほど眠り、十時に家を出て、お昼前に羽田空港着。
久しぶりの羽田は以前と何もかも変化していた。殊にセキュリティの厳しさは著しい。
鉛筆削り用の小さなアーミーナイフを手荷物に入れておいたら機内持ち込み不可で再手続きになった。

 十三時定刻に無事離陸。寝不足だったが地上風景が眺めたくて眠る気分にならない。
十五時に宮崎空港着。予定していた日南行きの列車は一時間待ち。案内所で聞くと路線バスが五分後に出発する。急遽バスに変更して、その旨、大堂津の郡司氏に携帯で伝えた。彼は地元の古刹円心寺の住職をしている。


 私は宮崎小学校六年・宮崎中学・大宮高校と宮崎市で七年間を過ごした。
当時の宮崎空港は芋畑に囲まれ、そこかしこに零戦を米軍攻撃機から守るための頑丈な掩体壕が残っていた。空港には国内唯一の航空大学が併設されていた。
旅客機はプロペラのフレンドシップ機が日に数度離着陸するだけののんびりした空港だ。離着陸の合間に、陽炎揺らぐ滑走路を友達と自転車競争したことがあったが、咎められなかったほどだった。


 当時の青島街道はほとんど車は走っていず、左右に田んぼや湿原が広がっていた。
道路に並行して宮崎軽便鉄道があった。数両の客車を引く小さな機関車のスピードは遅く、昔、ベルリン五輪の日本代表の村社講平マラソン選手と競争して負けたとの逸話が残っているほどだ。その牧歌的な光景は完全に消え、バスの車窓には気が重くなるほど雑然とした街並みが続いた。

堀切峠を過ぎて内海を過ぎると日南海岸ロードパークに入る。
昔の宮崎軽便鉄道は内海が終点だった。今その路線は日南市・北郷駅まで延長され、終点を鹿児島県志布志とする日南線に変わった。
国鉄時代、最初に敷設されたのは都城から志布志までの志布志線だった。その後、志布志線は日南の北郷まで延長された。今、それは逆転し、志布志・都城間は廃線となった。

ロードパークに入るとすぐに日南市に入る。観光開発がなされていない美しい入江が次々と現れ、今回の旅ではじめて旅情を覚えた。昔は旧飫肥藩の日南市と宮崎市は全く違う文化圏だった。両市が険しい海岸線と山地で隔たれていたからだ。
記憶では山地をうねうねと縦断するバス路線を山仮屋線と呼んでいた。海岸を行くのが主要路線だが、中新世後期の脆い水成岩質で、落石によりしばしば閉鎖された。雨の日に母に連れられて宮崎へ出かけた時、小型トラックほどの巨石が道を塞いでいたことがあった。ボンネットバスは小回りがきく。バスは巧みに岩を避けて前進した。峠を下って到着した青島と「こどもの国公園」は田舎者の私には目がさめるほど都会的な風景に見えた。


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今は海岸線もトクソ山系の険しい山道も近代的に改修され、南北の二つの文化圏は一時間足らずで結ばれている。その結果、日南(飫肥)文化圏は宮崎市に蚕食され、言葉も考え方も昔と微妙に変化した。

 私は小学六年に宮崎市へ引っ越した。私は宮崎市の言葉や文化が嫌で頑なに拒否した。
その結果、宮崎弁を飛び越え、標準語を身につけてしまった。
東京には宮崎を売りにした居酒屋が多くある。宮崎出身の友人たちに誘われて行ったことがあるが、店主が馴れ馴れしく宮崎弁で話しかけて来るのが嫌で、二度と行かない。

 久留米出身の母と博多出身の父がなぜ辺境の大堂津へ移り住んだかよく聞かれる。私が生まれたのは昭和二十年一月、疎開先の日田市豆田の産婦人科医院だ。敗戦後、母は大堂津の親しい知人たちから「こちらは米だけはないけど、魚も野菜もたっぷりある」と熱心に誘われた。それで我が家は、私の誕生前に大堂津へ引っ越して来た。

小学五年までの多感な少年時代を大堂津で過ごした。小学校では何を描いても五点満点の評価を受けた。そのおかげで、絵に対する絶対的な自信がついた。
小学校二年の冬だったか、円を二個描いて「お供え餅」だと提出すると、先生は「大変良くできました」と満点をくれた。その時は子供心に、少しやりすぎだと思ったほどだ。もしそれが、宮崎市などの都会だったら、級友たちからえこひいきだと非難されたはずだ。しかし、誰もおおらかで、嫌な思いをしたことは一度もなかった。

後年、教育の専門家にその話をしたことがある。
「それは理想教育だ。才能を育てるのに絶対的な効果があると分かっているが、義務教育で特定の子供を特別扱いすることは難しい」
彼はそんなことを話した。

小学六年から暮らした宮崎は自分の陰影を形成した土地だ。私は現実を否定するように、絵や映画や散歩に熱中した。人格や才能は陰陽バランスよくあって、巧く形成されるもののようだ。


 路線バスが鵜戸神宮に近づくと、小学生の女子二人が乗車してきた。
「よろしくお願いします」
大きな声で運転手に声をかけたのがとても可愛かった。
殊にその一人は東京ならスカウトが声をかけそうな程にスタイルも良かった。
どうやら、路線バスはスクールバスを兼ねているようだ。


二人の少女はともに目鼻立ちがはっきりした縄文系だった。
今回の旅行で気づいたが、日南地方は目鼻立ちのはっきりした美人が多い。全国各地から寄せ集めの新興都市の宮崎市とはかなり違う。それは陸の孤島のおかげで、縄文の血が薄まらずに残っているからだろう。

 日南市油津のバスターミナルへは十六時に到着した。
私の記憶にあるバスターミナルは大勢の乗降客がいて、いつも大混雑していた。
しかし、建物は廃屋のようにガランとして誰もいない。明るい日差しが差し込む待合室が虚しいほどだ。独り呆然としていると、掃除の小母さんが来て丁寧にトイレの掃除を始めた。堀川運河と乙姫橋方面へのバスについて聞くと、懐かしい日南訛りで親切に教えてくれた。腰が曲がったおばあさんだったが、見上げた顔は品の良い日南の顔立ちだった。


 バスが乙姫橋に近づいたので立ち上がると「バスが止まってから席を立ってください」と運転手に注意された。ついつい東京のせっかちなくせが出てしまう。乗客は老人ばかり四、五人で慌てて乗降する必要はなかったようだ。
乙姫橋は堀川運河にかけられた石造りのアーチ橋だ。堀川は飫肥藩によって作られた運河だ。それは港の一部で、昔は飫肥杉のいかだや漁船が繋がれていた。今は泥が堆積して、その機能は失われている。その一帯は一九九二年作「男はつらいよ・寅次郎の青春」の舞台に選ばれた。その時のマドンナ役は風吹ジュンだ。それから二十五年を経て、映画に登場した風景は乙姫橋と堀川の護岸を除き、ほとんどは失われた。


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1973年乙姫橋。
左手の建物に日南観光釣りセンターと看板がある。


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堀川上流、酒谷川からの取水路方面。
まだ漁業が活気があった時代だ。


乙姫神社にお参りした。記憶では明るく陽が燦々と差し込んでいるイメージがあったが、樹木が鬱蒼と生い茂り、鶯が鳴いていた。社殿が現代的なコンクリート作りに変わっているのは興ざめだった。その間、地元の人には全く出会わない。少し休んでいると、台湾から来たらしい家族が現れたが、すぐに去って行った。


その夜の日南かんぽの宿での会食の後、カラオケへ出かける友人たちを見送り、自室に戻り、翌日の大堂津小学校での講演原稿を考えていた。開け放った窓から、宿の下を流れる酒谷川の清流からカジカガエルの澄み切った声が聞こえた。不意に、父の土木会社のオンボロトラックで、酒谷川の河原へ土木工事用のグリ石を採取に来た時のことを思い出した。昔のトラックは小さくて雑で、運転席床板の隙間から浅瀬の水の流れが見えた。


 翌日、大堂津小学校で子供たちや父兄たちに絵について講演した。私は伝統技術が専門で講演依頼が時折ある。その時の聴衆は専門家ばかりで、難解なテーマでも問題なかった。しかし、子供たちはそれぞれの個性も興味も違い、全員を飽きさせずに話すことは至難の技だった。改めて、多様な子供たちに飽きさせずに教えなければならない、公立小学校の先生の大変さを実感した。

講演の後、旧知のお年寄りたちに会った。どの方も九十過ぎで、昔のままの大堂津弁の訛りを聞いていると、初めて郷里に戻って来た懐かしさが溢れた。

その後、大堂津駅へ向かう途中、細田川の堤防へ寄り道した。昔は堤防に小型の機帆船がたくさん繋がれていた。今は油津の堀川同様に泥が堆積していて、昔の面影はなかった。意外だったのは思っていたより川幅が広く、水が澄み切っていたことだ。堤防から川上の私たちが住んでいたあたりを眺めているうちに「うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川」を無意識に口ずさんでいた。


 宮崎市在住の井上氏が宮崎空港まで車で送ると言うのを固辞して、大堂津駅へ向かった。町中では、人にもツバメにもスズメにも犬猫にも出会わなかった。主要産業だった漁業が衰退すると動物たちもいなくなってしまうようだ。

宮崎行き列車の到着は一時間後だ。
大堂津駅裏の無人の海水浴場へ出て、休憩所のベンチに横になり空を見上げていた。
トンビが一羽、上空を舞っていた。それが大堂津で見た最初の生き物だった。
町並みはすっかり変わってしまったが、波音だけは昔と同じだった。
午前中の好天は、その時間になると雲が垂れ込め、雨がポツポツと落ちて来た。
慌てて大堂津駅へ戻った。

続きは日南紀行あとがき。17年6月4日へ。


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6月23日夕日、日没は午後7時。
右下は新幹線と埼京線の荒川鉄橋。
雨だとの予報は外れ、乾いた好天だった。
癌闘病中だった小林麻央さんが昨夜死去したことを知る。享年34歳。
彼女は「恋のから騒ぎ」以来親しんできた。
幼い子供を残して逝く母親の気持ちを思うと辛く悲しい。


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20日の風雨の荒川


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Goof

Mas

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2017年6月15日 (木)

病院の美味しいコーヒー、そして様々な離別。17年6月15日

毎日のように東京北医療センターのカフテリアでコーヒーを飲んでいる。
静かで雰囲気がよく、疲れが取れる。


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目の前は病院への通路で、午後遅くは見舞帰りの客が通る。
産婦人科が充実しているので出産祝いの客は多い。
彼らは華やいでいるが、病気見舞いの客は足取りが重い。

昨日は80代半ばの長身の老人がトボトボと過ぎて行った。
右手に杖、左手に着替えなどを詰めた買い物袋。
世話をしてくれる人がいないようで、なんとなく薄汚れ、後ろ姿は寂げだ。
入院しているのは彼の老妻で、病状が芳しくないのかもしれない。


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病院庭の小さな花。


毎日、先に逝った肉親や友人たちを思い出している。
母が生きている頃は、まだ上があると思っていた。しかし、死別すると次は自分との思いが強い。死は恐れてはいないが、自分の老いを痛感することが増えた。

別れは死別だけではない。
老いや病による意思疎通ができなくなる別れもある。
死別ほどではないが、こちらもかなり寂しい。

母との死別後、間もなく8年目に入る。
これからの8年はさらに早く過ぎて、気がつくと80代で死の足音が間近に迫っているだろう。一生を1年に例えると今は12月に入り、かすかにジングルベルが聞こえるあたりだ。


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夕刻に強烈な雷雨がやって来るとの予報だったので。5時前に帰宅した。
北方遠く埼玉上空に巨大な雷雲が見え、かすかに雷鳴が聞こえた。

日差しがあるが空気は冷んやりとしている。
この透明感は葬儀の後の静けさに似ていると思った。


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ヤマモモが熟すと母の命日は近い。

母の終末期の頃、夜になると1時間おきに私を呼びつけ、ほとんど眠れない日が続いた。
体力は限界を超えて、このままでは倒れると覚悟していた。
ある日の昼間、疲れ果てて自室で横になっていると、ほとんど歩けない母が手すりを伝ってやって来た。
「どうしたの」と聞くと
「ああよかった。静かだからマサキがいなくなったのかと思った」
母は安堵したように言った。
その時は、母の世話が嫌になって私が家出したのでは、と勘違いしたのだと思った。
「世話のかかる親を置いて、出て行くわけがないだろう」
私は怒ったように答えたが、母は何も答えなかった。
それから間もなく母は死んだ。

今思うと、母の私への信頼感は強く、私が家出するなどとは微塵も考えなかったはずだ。
本当は私が倒れて死んだと思ったのかもしれない。
母は呼吸不全と心不全により、極度に酸素飽和度が低く幻覚がよく起きていた。
しかし、驚くほど頭は冴えていて認知症はなかった。
だから、私が疲れ果てていることはよく承知していて、それを母は気に病んでいた。


その後、母は1週間ほど寝たっきりになって7月1日に逝った。
母は私に負担をかけないために、自ら命を縮めたと今も信じている。
インデアンの老人が「今日は死ぬのに良い日だ」と言って死ぬことを、それ以来信じるようになった。


夜の荒川土手の散歩は心地よい。
今年の梅雨は涼しく夜風は寒いくらいだ。風の強い夜の浮間が池の森のざわめきは心地よい。深夜まで、ジョギングやウォーキングの人が途絶えないのは、それらの自然の素晴らしさを知っているからだ。

土手上から家々の明かりを眺めるのもいい。
一つ一つの明かりに幸せな家庭があると想像すると、心が暖かくなる。
母も同じことを話していた。
夜汽車が農村地帯を行く時、田んぼの中に転々と明かりが見える。
その時、一つ一つに幸せな家庭があると思うと暖かい気持ちになる、と母は話していた。


M_14


先週、明治神宮へ行った。
噂通り、外人ばかりだった。
日本人は少数で、自分が異邦人になったような気分になった。

その後竹下通りへ行った。
こちらは人種が溶け混ざっていて、楽しかった。


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総務省の新しいイノベーションへの提言へ応募するための説明会へ出席した。
その時の女性官僚。
やや意地悪くデフォルメしてあるが、本当は好人物だ。

日南紀行は膨大な量を書き上げているが、アップする気になれない。
地方と東京の格差。簡単に語れない重さがある。


M_13

締め切りが次々と迫っているのに、よく出かけている。
先週は友人に誘われてお台場へ行った。
郷里の海とは違うが、東京の海も好きだ。


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Goof

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