2018年6月12日 (火)

ヤマモモをネパールからの研修生と食べた。18年6月12日

東京北医療センター庭のヤマモモ が熟し始めた。
今年は好天が続き、例年になく甘くて美味しい。
しかし、先週土曜あたりからカラスが大挙して押し寄せ、今日はほぼ丸裸にされていた。


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カラス被害を受ける前日、たわわに実ったヤマモモ をたらふく食べていると、芝生で休んでいた若い女性グループが私を眺めていた。
「これヤマモモ。 知ってる? 甘くて美味しいよ」
声をかけると、その中の西欧的な顔立ちの綺麗な子が「知ってる」と答えた。
聞くと、ネパールからの看護師研修生だった。
ネパールにもヤマモモはあるようだ。
原産地は中国と日本だが、ヒマラヤの交易路を通じて伝播したのだろう。
現地ではヤマモモのことを「ザポーン」と呼ぶと教えてくれた。
「枝を引き寄せるてあげるから、摘みにおいでよ」
女の子たちを誘うと、楽しそうに近づいてきた。


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ネパールは多民族国家で、南からインド系、北からチベット系と入り乱れ、彼女たちも実に多彩な顔立ちだ。受け答えをしてくれた西欧的な色白の子はインド・アーリア系だと思った。


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雨の荒川河川敷から川口の高層マンション群。

昨日に続き今日も冷たい雨だった。
このみずみずしい美しさを知らずに過ごす人は気の毒だ。


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雨に濡れたノカンゾウ。

前回記した「老いたら明日のことは考えてはならない」は言葉足らずだった。
「明日のことは一切考えない」のではない。
明日、病院へ行くとか、友人と会うとかの事務的なこと、生活費への対策など、考えなくてはならないことは別だ。考えてはならないのは、考えてもどうしようもない死や、病や、不運、などだ。それらを考えたり悩んだりしたとしても解決はしない。貴重な時間を無駄使いしてしまうだけのことだ。

事務的な必要事項であっても10分間以上考える必要はない。
歳を重ねると、人生の殆どの事項は経験して対策は確立している。だから10分も考えれば解決する。
もし、10分考えても解決案が出ないなら止めるべきだ。考えるのを止めて、散歩したり、テレビを見たりしていると、不意に良い解決策が思いつくものだ。今までの人生で幾度も危機的状況に遭遇したが、長時間考え続けて解決した事例は一つもなかった。だから「老いたら明日のことは10分以上考えてはならない」と書くべきだった。


老いたら自分に義務を課しない。
無理せず風に吹かれるように飄々と生活する。
もし、解決できない悩みがあったら、神様か仏様に丸投げしてしまう。
それが日本人の宗教的な生き方だ。

比べるとキリスト教やイスラム教は厳しい。
人は神との厳格な契約に従って、自分を律して生活しなければならない。
そのような宗教観が生まれたのは、中東の自然環境の厳しさがあるのだろう。


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Mas

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2018年6月 3日 (日)

埼京線のちょい悪日系老人二人に、介護施設の死を待つだけの老人に、104歳の自死、老い三題。18年6月3日

荒川土手の階段を下っていると、カップルとすれ違った。男性は日本人、女性は北欧系のグラマーなブロンド。彼女は満面の笑顔で幸せそうだった。下り終えて振り返ると、二人は土手上に立ち、広大な荒川河川敷を眺めていた。二人の後ろ姿に幸福感が満ちていた。

二人を眺めながら、先日のEテレ「世界の哲学者に人生相談」の中で紹介されたフランスの元高校教師の哲学者アランの言葉を思い出した。
「幸福は他人に対しても義務である。なぜなら、幸福は人に伝染するからだ」
若い頃は幸せなカップルに対しての羨望があり、素直に幸せにはなれなかった。しかし、老いた今は違う。アランの言葉のように、自分にも幸せが伝わって来て心地良かった。


中国の天安門事件の頃、自由と豊かさに憧れて日本に移住した中国人の後悔についての記事を読んだ。
今、彼らの多くは日本国籍を取り、日本人として安定した生活を送っている。しかし、本国の大発展と同窓生の大出世を見ると取り残されたようで、心中穏やではない。もしあの時、我慢して留まっていたら、彼ら同様に豊かさを謳歌できたのにと後悔しているようだ。元来、拝金主義の中国人には日本の安全で静かな生活は物足りず、騒々しく弱肉強食の母国の方が魅力的なのだろう。だからか、彼らの多くは子供たちを欧米に留学をさせ、そのままその地へ移住することを薦めている。
日本人にも海外の安い生活費や、豊かな自然、一攫千金に憧れ、移住する者は多くいる。しかし、日本国籍まで捨てる者は稀だ。だから、中国系日本人の後悔に日本人の多くは共感できない。

私見だが、中国は地方と中央の大きな格差を是正する前に、日本以上の急激な少子高齢化によって今の好調な経済は激変する。それは今の中国の子供たちが大人になる頃に起きるだろう。中国の富裕層を相手に商売をしている友人から聞いた話だが、中国人の子供たちは甘やかされて育ち依頼心が強く、日本人の子供たちよりひ弱だ。

振り返るとバブル期の日本人たちも今の中国人たちのように豊かさを謳歌し、さらに豊かな未来を夢見ていた。栄枯盛衰は世の習いだ。歴史上、繁栄を長く維持できた国は一つも存在しない。

老子の言葉に「足るを知る」がある。
「十分に持っているものには気づかず、足りないものばかり気になって、自らを不幸にしてしまう」との意味だ。

自分の選んだ人生を後悔するのは最大の不幸だ。
若者たちは健康と未来の可能性に溢れているのに、自らは気づかず、足りないものばか論えて不満を言う。それらは老いて初めて気がつくことだ。先の中国系日本人たちも、綺麗な空気、安全な食物、健康保険で受診できる信頼できる医療、穏やかな人情、それらは当たり前になってしまい、物足りない資産や社会地位ばかり気になるのだろう。


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先日、池袋へ向かう埼京線に大らかな顔つきの日に焼けた逞しい老人が二人乗っていた。二人は物珍しそうに過ぎ行く車窓風景を眺めていた。時折聞こえる会話から、南米移民二世の日系人のようだった。九州の郷里にも同じような雰囲気の逞しく日焼けした老漁師たちがいた。電車の二人との違いは、大らかさに日本人特有の実直さが加わっていたことだ。

電車の二人は遊び好きのちょい悪の雰囲気もあって魅力があった。そのような老人を見ると、エトランゼとなって南米辺りの辺境をさまよいたくなる。
池袋で二人の老人とともに下車した。ホームには彼らの孫らしいラテン系の綺麗な女性たちが待っていて、陽気に再会を喜んでいた。


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ガクアジサイが咲き始めた。
いつの間にか梅雨の季節になっていた。


時折、東京医療センター入り口のベンチで休む。
道路を隔てて高級介護施設がある。基本利用料は月に20万〜40万。それに様々雑費が加わるので、高額年金生活者しか入居は無理だ。施設は完成してから10ケ月が過ぎたがまだ半分ほどしか埋まっていない。運営は厳しそうだ。

ベンチからは各階の談話室が見える。夕暮れ、夕食を終えた入居者たちがそこで互いに会話するでもなく佇んでいる。彼らの1番の楽しみは家族や知人の訪問だが、その望みが満たされる入居者は少ない。そうやって3年か4年過ぎれば体力が低下し、老人専門病院へ転院して死を迎えることになる。老人の幸不幸は財力以上に体力が大きく関わる。


先日記した、安楽死目的でスイスへ旅立った104歳のオーストラリア人科学者グドール氏はフランスのボルドーで暮らす親せきを訪ねた後、スイスに戻った。そして、地元の報道陣に「50歳か60歳になった時点で、当人が、このまま生きるか死ぬか自由に選択できるようにすべきだ」と訴えた。
その数日後、グドール氏はバーゼルのクリニックで致死量の麻酔薬を投与され、ベートーベンの「第9」を聴きながら、息を引き取った。ちなみにスイスでは、2015年に約1000人が安楽死を選んだ。

素晴らしい人生を送り、オーストラリア最高齢の104歳の長寿に恵まれながら、最期に自死を選んことは衝撃だった。老子は天に為されるがままに生きよと言った。最後に苦痛が待っていたとしても、死は受け身に受け入れなければならない厳粛な事実だ。

どのような最期を迎えるかは極めて個人的なものだ。法によって強制できることではない。去年暮れ、西部邁氏は友人たちの手を借りて自死を選んだ。手を貸した友人たちは自殺ほう助罪で罰せられるが、執行猶予付きの比較的軽い刑になるだろう。

西部邁氏の気持ちは大変よく理解できる。しかし私は、自分の死は自然に任せようと思っている。だから、延命措置は拒否するし自殺も選ばない。もし体力が残っているなら、いつものように絵を描いて、最後まで仕事をしていたい。
誰かに頼って生きようとは望んでいない。
できることなら、野生動物のように一生を終えたい。

「老いたら明日のことは考えてはならない」
最近気付いたことだ。
自分の死後に残された家族や、自分のいない世界のことは考えてはならない。
死を躊躇する気持ちは、そのような未来に囚われることから生まれる。
最後の最後まで、今生きていることを不満なく淡々と受け入れ、どんなに些細なことでも楽しむことだ。更に付け加えるなら、老いたら後悔も反省も、嫌な者と付き合う必要もない。
後悔したり、先のことを心配したり、嫌な者と付き合ったりすれば大切な今の時間を無駄にしてしまう。


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いつもの公園のベンチにて。

いつもの公園の木立を抜ける時、頭すれすれにカラスから4度襲われた。通路脇に営巣を始めたようだ。
少し行くと40前後の女性とすれ違った。カラスに襲われた道は樹木に覆われ薄暗くて通る人は少ない。その人は違う道にそれるだろうと思い、カラスのことは話さなかった。

ベンチで休んでいると、カラスの騒がしい声が聞こえ、ややあって先ほどの女性が引き返してきた。
「カラスに襲われましたか」
声をかけると女性は「とても怖かったです」と笑顔になった。
その笑顔が好きな女優に似ている思った。しかし、どうしても名前を思い出せない。帰り道、延々と考え続け、やっと夏川結衣の名を思い出した。最近、とてもよく知っている名前が思い出せなくなった。


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Mas

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2018年5月27日 (日)

テレ朝「こんな所に日本人」ラオス編で、以前会った中村章吾氏が尋ね人になっていた。2018年5月27日

テレ朝「こんな所に日本人」を毎週見ている。
旅番組で好きなのは、Eテレの「旅するフランス語」「旅するドイツ語」などの語学シリーズとテレ朝の「こんな所に日本人」だ。

前者は現地の人が取材にとても協力的だ。それは母国語を広めるための番組に対しての愛国心からだろう。普通、外国人に尊大な態度を示しがちのフランス人でさえ、取材に対し実に愛情が溢れている。普段の旅番組では見られない稀有な場所でも、丁寧に紹介してもらえる。

普段取り上げられない稀有な僻地の紹介では、後者の「こんな所に日本人」が優れている。飛行機で行ける場所でも、レボーターは過酷なバス旅行を強いられる。画面には出ないが、現地の原始的なトイレなど、よくぞ女性レポーターが利用できたものだと感心してしまう。以前、秋野暢子が東南アジアの僻地へ行った時、トイレに入るとありとあらゆる虫の大群に群がられて、虫嫌いの彼女は卒倒しそうだった、と話していた。この臨場感は飛行機旅では絶対に得られないものだ。

先日の「こんな所に日本人」のラオス編は市川右團次54歳がレポーターだった。
彼は「陸王」でシューフィッター役をしたことで有名だ。
行き先はラオス・パクソン郡トンガッタイ村。そこに暮らすたった一人の日本人を探す旅だ。
経路はバンコクからラオスのヴィエンチャン。
タイ国境へ向かってメコン川沿いに5時間でターケーク。
そこでバスを乗り継いで更に8時間でパクセー。 
パクセーは古い歴史のある街で、これから観光地として発展しそうだ。
パクセーから西へバス1時間で高原の街パクソン着。
標高は1000~1350m程で、冬は日中20度、朝の最低気温は10度と涼しく日本の早春の感じ。キャベツ、白菜など高原野菜やコーヒー・お茶の産地。焙煎前のコーヒー豆の現地価格は1キロ150円。パクソン郡は暑い時期でも雨が降ると気温が下がり、長袖ジャンバーが必要なほどだ。現地では避暑地として有名で、これから観光で発展しそうな地域だ。

トンガッタイ村に到着したレポーターの市川右團次は、村民に手当たり次第に日本人の情報を聞くが誰も知らない。聞き込みをしているうちに、日本人の所在を知っている副村長に出会う。彼が運転する耕運機の荷台に乗って自然林の中を1時間ほど、やっと目的の日本人と出会えた。

彼は中村章吾43歳。その姿に見覚えがあった。早速、名刺ホルダーを開くと彼からもらった名刺が見つかった。昔、付き合いがあった役者などをテレビで見かけても驚かないが、テレビ画面で普通の人と出会うことは稀で驚いた。

中村章吾氏と出会ったのは2014年の初夏の頃だった。
その頃、今の公営住宅が抽選で当たり、引越し準備に旧居の荷物を整理していた。
当時の旧居・公団は家賃が高く、引越し費用どころか生活費にも窮していた。保持していた金・プラチナや宝石などは全て売り払って、本当に逆立ちしても鼻血でない状態だった。
しかし、住まいを整理し始めると金目のものが次々と出てきた。
絵描きに転向する前の高収入の頃、伝統工芸素材の赤銅や四分一をキロ単位で作ってあった。作った当時は金が安く、どれも金を3〜5パーセントを含む高品質なものだった。それらを旧知の日暮里の地金商に持ち込み金を抽出してもらい、買い取ってもらうと100万ほどになった。お金など全くないと思っていたので本当に嬉しかった。
更に銀素材も残っていたので、ネットで見つけた池袋の地金商に買い取ってもらう事にした。

電話を入れると地金商は意外に若い人だった。
一人で営業しているようで、行く時間を予約して地金を持ち込んだ。そこはメトロポリタン近くの雑居ビル上階の小さな店だった。彼は板地金の一角をベンチで切り取って組成を調べた。少し不慣れな手つきで、たたき上げのプロではないと思った。地金商がやりがちな誤魔化しはなく、正直にその日の相場で買い取ってくれた。こんなやり方で儲けが出るのかと心配になったほどだ。

その後、彼と世間話をした。
彼は釧路の出身で、近く地金商はやめてラオスで農園をすると話していた。農業の経験はないが現地人を雇うので問題はない。すでに土地も買ってあると楽しそうだった。
「もし、実現したらテレビ取材があるかも知れませんね。ラオス関連の番組はチェックするようにします」
そのようなことを話して別れ、私は地金の売上を持って久しぶりにディズニーランドへ行った。

「こんな所に日本人」で、彼は釧路の高校を卒業した後、上京して新聞配達をしていたことを知った。
1995年20歳で企業向け融資の会社に就職したが、会社がすぐに傾き始めたので離職した。その後、24歳でリサイクルショップを立ち上げて1000万貯蓄。それを株に投資して4000万に増やして沖縄へ移住した。更に株で7000万稼いだがリーマンショックの不動産株暴落で大損失。傷心のまま東京へ戻った。それからFXを始めて年収は1000万を超えた。
銀の地金商はその頃に始めた商売だった。地金商はリサイクルショップの経験を生かしたのだろう。

トンガッタイ村で日本人の存在を誰も知らなかったのは秘密にしてあったからだ。
日本人がいると知られるとドローボーが一杯寄ってくるらしく、移住当時「日本人が来たぞー」と噂になって10回以上泥棒に入られたと、彼は笑いながら話していた。

ラオスに移住した理由に重度の食物アレルギーがあったからと話していたが、本当は国際結婚お見合いサイトで知り合った16歳下のラオス人女性の存在が大きかった。
ラオス人女性と知り合った2014年38歳の彼に私は出会った。
翌年、2015年結婚して、去年FXを辞めてラオスに移住した。移住の本当の理由は、妻の一族20人以上の面倒を見ていては大変なので、現地で事業を起こし、一族に働いてもらい自立させることが目的だった。

幸い、現地は観光避暑地として将来性がある。
購入した7ヘクタールの土地に自費180万で電気を引いた。今は妻や現地の親戚とテント暮らししながら、これから増える観光客用のカフェと自宅を建設中だ。
年下の27歳の妻は可愛くて誠実で、彼はとても幸せそうだった。
43歳の彼は、私が絵描きに転向した歳と同じだ。
これからも様々なことが起きるだろうが、彼は良い人生を過ごせるような気がする。


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ツリーハウス。
のんびりひたすら昼寝をしたい、と願いながら描いた。


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2018年5月16日 (水)

フリーランスの年齢の壁 18年5月16日

住まい下の荒川土手に以前から50センチほどの桑の木が生えている。
荒川土手は年に3〜4回草刈りをする。
桑はその都度、根元から刈り取られるが、2ケ月ほどで元の丈を回復する。
桑は再生力の強い木だが、この桑を眺めると「自分も頑張らなくては」と励まされる。

今年の荒川河川敷の山桜は例年になくサクランボが大豊作だ。
今年は好天が続いたので、桑の実もとても甘く熟した。
毎日、歩きながら仄苦く甘酸っぱいサクランボと桑の実を贅沢にたっぷり食べている。
田舎ではそのようなことはできない。
なぜなら、どの桜も桑も必ず個人所有者がいて、よそ者が勝手に採って食べると叱責される。
その点、東京の空き地はほとんどが国有地で、誰でも自由に採って食べることができる。


先日、医学冊子の表紙絵を納品した。
7月納品でも良かったが、集中してやりたい個人的な仕事があるので先に済ませた。
時間はたっぷりあったのに、いつもの癖で、納品日前日は徹夜になった。去年あたりから徹夜仕事をすると目の調整機能がガクンと落ちた。筆先が二重に見えてどう頑張っても絵が描けなくなる。以前はなかった症状に老いを強く感じる。

絵を納品した後、銀座へ回って、知人が参加しているグループ展のオープニングに顔を出した。
遠方の知人は上京していない。知人に送るために、会場の様子を写真に撮った。身内ばかりの会場は居心地が悪く、早々に辞した。

好天の銀座は静かだった。以前との違いは、騒々しい中国人を見かけなくなったことだ。もしかすると、彼らは日本の規範を受け入れ、目立たなくなったのかもしれない。

銀座は画廊などの旧知の人たちと会えるのが楽しい。しかし、30度の暑さに加え、徹夜疲れを感じたので長居せずに帰路についた。
北赤羽まで電車で行くつもりだったが、赤羽の埼京線のホームは人で溢れていた。どこかの線路に人が入ったようで電車が止まっていたが待つ気分ではない。赤羽から家まで歩くことにした。その前に、赤羽駅そばのドトールによってコーヒーを飲んで休息した。

疲れていても、赤羽で下車すると安らぐ。
いつもの高架下のショッピングセンターは抜けずに、久しぶりに赤羽台下の道を抜けた。埼京線と新幹線はその道に並行している。以前はそれらの路線はなく、赤羽・池袋間の赤羽線を羊羹色の古い車両が行き来していた。


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右は新幹線と埼京線の高架。
それ以前の平成の初め頃は小さな飲食店が並び、その先に日本通運の作業所があった。その頃、九州へ送る絵を持ち込んで、美術梱包をしてもらって送ったことがある。10万ほどかかったが、高いとは思わなかった。左手の崖は赤羽台の丘陵を削ったもの。崖には軍事用の巨大な防空壕があったが、戦後、石垣で埋められた。

この道には昔の旧居方面へ向かうバス停がある。
不意に、赤いショッピングカートをガラガラ引いてバス停へ向かう母の姿が幻覚のように蘇った。母に声をかけると「おや、いま帰りなの」と嬉しそうに振り返った。
そんな幻覚をリアルに感じたのは寝不足のせいだろう。


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散歩コースの芙蓉。

最近「フリーランスの40歳の壁」の記事を読んだ。
自由業では40歳を過ぎると仕事が激減する、と言った内容だ。
なぜなら、仕事を出すクライアントの担当が作家より若くなって、年上は使いづらくなるかららしい。

私は昭和から平成に変わった頃に、43歳で絵描きに転職した。
絵描きに転向したが、絵は安定して売れないので主軸はイラストに置いた。
40歳過ぎていてもイラストの仕事は断るほど依頼された。それは人脈が良かったからと思っている。
「フリーランスの壁」にも人脈の重要性が書いてあった。
若い頃に編集者やデザイナー達と親しくしておけば、やがて彼らが出世して仕事を出してくれる、と言った内容だった。

今は人脈も役立たないほどにイラスト業界は超氷河期だ。本業だけで食っているイラストレーターをほとんど知らない。対してゲーム業界は活況だ。こちらは高度なCG技術が必要で、誰でも参入はできない。

今は本業の絵も売れなくなった。
日本経済の規模は大きくなったのに、年々絵は売れなくなって行く。銀座あたりの老舗画廊も次々と閉廊している。以前は個展の案内状が毎日送られて来たのに、今は月に1,2枚だ。なぜそのように低迷してしまったのか皆目分からない。私の絵を買ってくれていたのは中小企業の経営者とか、医師、弁護士などだった。それらの伝統的な富裕層の縮小を感じる。これから売れる絵は、有名作品の材質も形状も全く同じクローン絵に変わると思っている。そうなれば、新人が入り込めるチャンスは更に小さくなって行きそうだ。


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絵の納品帰りの車窓から、日暮里駅のホームで見かけた男女。
ともに派手な花柄パンツに黒Tシャツ。
東欧系らしい女性は、携帯をかけている男性の会話を遮るように黒ひげをシゴいていた。
女の手つきが何となくわい雑だったので印象に残った。


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2018年5月 8日 (火)

東京連休風景・好天の連休の後の記録的低温 18年5月8日

東京の連休風景が変化した。
10年前のゴールデンウィークは街から人が消えて閑散としていた。今は違う。混み合う行楽地を避けて、都内でのんびり過ごす親子連れが目につく。住まい下の荒川土手も、ジョギングやサイクリングで賑わっていた。この平和で健康的な風景は心地よい。若い頃は、そのような平凡を嫌っていたのに、年を重ねるにつれ価値観が大きく変わった。


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東京北医療センター下の公園。
この広場は桜の頃は花見客で賑わっていた。花見客に踏みつけられたクローバーは回復して、一面花に覆われている。好天だった連休中は、クローバーの花の中にいく組もの母子が腰を下ろして花冠など作って遊んでいた。四葉のクローバーを探している人もいた。四つ葉を見つけた嬉しそうな仕草が遠目にも分かった。


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日曜、病院庭のベンチでお茶を飲んだ。
目の前のクローバーの中で若夫婦らしき男女が四つ葉を探していた。新妻は黒のロングスカートの綺麗な人だった。彼女は長い裾が邪魔なのか、スカートの裾を太ももまでたくし上げて四つ葉を探していた。スラリとした白い足が艶めかしく眩しかった。
傍の老人介護施設「桜の杜」の老入所者が、彼女たちをぼんやり眺めていた。もし、老人にも彼女の綺麗な足が見えたら、その刺激で元気になって、1年くらい長生きできるかもしれない。

5月は1年の中で一番心地よい時期だ。仕事は低迷しているが、この素晴らしい貴重な季節は嫌なことを忘れさせてくれる。歩きながら「至高の生き方は、現実をあるがままに受け入れことだ」の老子の言葉を思い出した。老子は、現実をあるがままに受け入れてしまう赤ん坊を生き方の理想形とした。健康と病、裕福と貧困、権力と被支配。人はプラス面は受け入れるが、マイナス面は素直に受け入れることができず苦悩する。その点、赤ん坊はそれらを他と比較して選り好みしたりはしない。


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ミズキの花簪のような花。
九州の郷里にはない樹木で、上京した当時は、とても珍しかった。

昨日は曇り空の下散歩へ出た。荒川河川敷の熟し始めた桑の実を摘んで食べながら歩いた。桑の実は個体差が大きく、1本毎に甘みが違う。大粒で枝に疎らについている実は甘く、小粒で密集している実は酸っぱい。

東京北医療センターのカフェテリアでコーヒーを飲んだ。飲み終える前に雨が落ち始めた。買い物があるので、急いでコーヒーを飲み干し店を出た。
買い物を終える頃には本降りになって、濡れた衣服に吹き付ける風が冷たかった。


今日は雨は止んだが肌寒く、10年ぶりに最高気温が15度を下回った。
午後遅く、ポツポツと雨が落ち始めた中、散歩へ出た。
冷たい大気は憂鬱な現実を思い出させる。
心底、連休の好天が懐かしくなった。
5月連休の好天は本当に貴重だ。
好天は戻って来るが、その頃の緑は色褪せ、蚊も発生して5月始めの快適さはない。


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連休終わりの夕空。天候の悪化を予感させた。
下は荒川河川敷ゴルフ場。

先日、104歳のオーストラリア人男性が、安楽死目的で欧州へ旅立ったとの記事を読んだ。
彼は長生きしたことをひどく悔やんでいた。
その人は西オーストラリア州に住む植物学の研究者デービッド・グッダルさん。
彼は安楽死支持団体の看護師に付き添われ、スイスのバーゼルにあるクリニックを目指した。
ABC放送のインタビューに「誕生日の願い事がかなうとしたら死を望む。私は幸せではない。死にたいと思う。それはとりたてて悲しいことではない。悲しいのは、死を妨げられることだ」と語っていた。オーストラリア、ビクトリア州は2019年半ばから安楽死を認める計画だが、彼が住む西オーストラリア州は合法化されない。

彼は1914年4月、ロンドンに生まれ。英国、米国、オーストラリアの大学で教鞭をとり、1979年に引退後は生態系の学術書籍を編さんしていた。経歴と現状を見ると、一貫して充実した人生で後悔とは無縁に思える。インタビューに「身体機能や生活の質は悪化しつつあり、更に悪化して不幸になることは望まない」と応えているが、104歳でスイスへ旅できるほどの健康状態は保っている。
安楽死については「人が自ら命を絶つことを選ぶのなら、それは正当な行為であり、他人が介入すべきではない」が彼の考えだ。

彼の死と老いに対する考えはとても興味深い。老人医療を専門にしている医師から「長生きすると死に対する恐れが薄れる。それは神の恩顧かもしれない」と聞いたことがある。だから、100歳を過ぎてからの自死は極めて稀だ。私見だが、彼は人生に満足しなかったのでは、との疑念が募る。しかし、世の中には自殺する人は多い。最近では西部邁氏の自死が印象深い。

彼は100歳を超えていたことだけが特異なだけで、一般的な自死と同じと捉えるべきかもしれない。それにしても、数年で自然死が訪れるのに、死を早める心情は興味深い。死に対する恐れについては仕組みが解明され医学で解決できると思っている。その頃は薬物や心理療法で、死期が近くなったら、人は苦しんだり悩んだりせず、眠りを待つように死の訪れを待ち焦がれるようになると思っている。


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病院下公園の寒い雨と散り始めた石楠花。
今年は一段と鮮やかに咲いた。
背景は桜並木。


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