2018年9月25日 (火)

あり合わせの知こそ最強の知性である=レヴィ・ストロース 18年9月25日

 昨日は十五夜だった。予報では曇り空で月見は無理と言っていたが、雲の晴れ間から美しい満月が見えた。満月を見上げると良いことが起きそうな気がする。

 先日、十条で友人と飲んだ。十条は昔ながらの商店街が元気だ。昭和38年から48年まで10年間住んでいた頃と今も賑わいは変わらない。
地方の商店街では完全に大型店に淘汰されシャッター通りに変わってしまった。
東京はまだ生き残っているが数えるほどしかない。商店街の素晴らしさは客と店主のコミュニケーションにある。ただ生きるためだけの便利な生活ならコミュニケーションは無用だ。しかし、それだけでは生活の潤いがない。
十条の商店街へ行く都度、人にとって進歩とは何かを考えさせられている。

 私が上京した頃の東京の下町には、100メートル四方に小さな雑貨屋、総菜屋、八百屋、魚屋があり、一人暮らしの老人でも楽に生活できた。今は代わりにコンビニが生まれたが、昔の個人商店ほど充実していない。だから今は足腰が弱ると一人では生活できなくなる。杖をつき重い荷を背負ってトボトボと歩く老人を見ると胸が痛む。

 街の進化はそれだけではない。日本政府はお金の支払いおけるスマホ決済を進め、キャッシュレス化を目指している。それには政府の目が届きにくい脱税や闇資金を止める目的もある。しかし、スマホ決済が進めばスマホが使いこなせない老人は取り残される。すでにスマホによるキャッシュレス化や生活サービスが進んでいる中国では、スマホが使えない老人は買い物も役所での手続きも病院の予約も公共交通の利用もできなくなって取り残されている。

 スマホのような便利な機械に頼りすぎると、人間本来の能力は衰退し知能指数が落ちると近年の脳科学で明らかにされた。先日の北海道地震では停電になりスマホが使えなくなって大混乱が起きた。様々問題があっても、若者にとってスマホは最大の必需品だ。もし、スマホを家に忘れたら、ほどんどの若者は学校や会社に遅刻してでも家に取りに帰ると考えている。

 社会は衛生的にスッキリして合理的なら良いと言う訳ではない。ドイツや北欧の風景はスッキリしていて、ごみごみした闇の部分がない。中国やシンガポールでは古い町並みを次々と破壊して、真四角なビルを建てている。そのように衛生的に進化させられた街にはゆとりがなく、人らしい楽しさは見出せない。対してゴミゴミしたアジア的な混沌には潤いがある。東京でも混沌としたアメ横には人が溢れ、活気に満ちている。築地魚市場は豊洲に移転するが、病院か工場みたいな豊洲新市場が築地のような魅力を発揮するとは到底思えない。石原元知事は世界的ブランド「築地」の価値を全く理解せず、ゴミみたいに捨ててしまった。

 それでも社会は完璧に便利な合理性を目指している。今流行りのIoTでは、家の戸締りから台所の食品管理まで全てAIによるシステムが代行してくれる。もしIoTシステムが完成したら、人は何もせず何も考えずに一生を終えることになる。

人生の価値のほとんどは無駄なことで構成されている。昔のSF小説では、未来社会では1日に丸薬を2,3粒飲めば何も食べなくても生きていられる、などと書かれていたが、それは実に潤いのない生き方だ。むしろ、自然の中で苦労して自然の食物を集め、焚き火で調理して食べる方がずっと楽しい。

 私はスマホを拒否しているが、小さくて字が読みにくいからとか、すぐに電池が切れてしまうからだけではない。そのような短所はすぐに改良されるだろう。そのようにスマホが進化しても私は使わないはずだ。その根底に自然保護と同じ考えがある。自然な生き方は不便だが、その部分にこそ人らしい生き方があると思っているからだ。


M_9

荒川夕景。

 世界の哲学者に人生相談最終回「マニュアル依存な自分。想定外に対応できない」を先日見た。この回では自分らしく生きるヒントが語られていた。

フランスの社会人類学者・民族学者で哲学者でもあるレヴィ=ストロースはブラジル奥地の原住民の生き方から学んだ。
彼は20世紀初めのパリで過ごすうちに機械文明へ違和感を抱き、文明から逃れるようにアマゾン奥地の先住民の中へ飛び込み、共に暮らした。
先住民はわずかな道具を使い自然の植物で家を建て、自然から作った目薬をさす時は葉を円錐形に丸めて使ったりしていた。彼らの生活には、自然にあるもので何でも作り上げてしまう知恵に満ちていた。彼は先住民との暮らしを著書「野生の思考」にまとめ、大ベストセラーとなった。

「あり合わせの知こそ最強の知性である」レヴィ=ストロースの言葉。

 それに関連して、昔見たアフリカのドキュメンタリー番組を思い出す。映像には無一文で数百キロを歩いて旅を続けている現地の若者が登場した。彼が身につけている荷は小さめの座布団みたいな草の葉を編んで作ったバックだけだった。その中にはナイフと裁縫道具とボロ布が少量入っているだけで、若者はナイフ一つで、夜は小さな小屋を建てて休み、野生の植物を見つけては食料にしていた。

 同じ頃に見たヒマラヤを舞台にしたドキュメンタリーでは、現地の案内人は豪雨の中、竹としわくちゃの古びたビニールを使って、快適なかまぼこ型のテントを作り上げた。
日本でも昔の山の民は山から山へ移動しながら、山刀一つで山小屋から風呂まで作り上げ、手作りの釣り道具でヤマメを釣って食料にした。
対して、現代人は脳も肉体もひ弱になってしまった。


M_8


 ツタヤオリジナルのボールペン上2本とシャープペンシル下2本。
色合いは、金と銅の合金である赤金に近い。
この色合いが無性に好きで、まとめ買いをしてしまった。
この数があれば、死ぬまで使い続けられるだろう。

 この色合いを見ると昔見た現代版の「ロミオ+ジュリエット」を思い出す。
1996年米バズ・ラーマン監督作品、ロミオ:レオナルド・ディカプリオ、ジュリエット:クレア・デインズ。こちらはジュリエット役が角張った男顔で清純ではなく、作品を台無しにしていた。しかし、ディカプリオ好きの女性達には熱狂的な人気があった。

舞台はブラジルの架空の都市ヴェローナ・ビーチ。若者たちはアロハシャツを着て、城は高層ビル、剣による決闘はなく街を巻き込む銃撃戦だった。その時、ロミオが剣の代わりに使ったシルバーのオートマチック拳銃の銃把に透けて見えた赤金色の銃弾が実に美しかった。
その銃弾の美しさを思い出して上記のペンシルを衝動買いしてしまった。


M_6

もらった食べ物は食べる前にスケッチすることにしている。
郷里の漁師町から大きな伊勢海老が届いた。
昔からたくさん食べてきたので、1匹だけですぐに飽きて食傷気味になった。


M_7

先日もらった20世紀梨。
瑞々しくて懐かしい。
最近は豊水などの赤梨系が多くなった。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

2018年9月16日 (日)

無欲で誠実な人に天は幸せを与える。18年9月16日

土曜は友人と上野のアメ横へ行った。
関空の台風罹災や北海道地震の影響で訪日旅行者が減少しアメ横は空いていた。いつもは大混雑で通り抜けが難しいアメ横センター前も、今日はスイスイと抜けられた。

いつものように"とんかつ山家"でヒレカツを肴にビールを飲み、そのあと上野駅前の椿屋珈琲店に入った。
友人としばらく話していると隣のテーブルに30代の女性と上司らしき男性が席についた。
男はガサツで怒鳴るように自慢話をするのがとてもうるさい。彼女の方は居心地が悪そうで早く帰りたい様子だ。男は明らかにデートのつもりだが、彼女は渋々付き合っているようだ。そのような不毛な関係を見せられると気分が滅入る。

彼がトイレへ席を離れた時、彼女は手持ちのお金をしばらく調べていた。彼女が口にしていたコーヒーとケーキは合わせると2000円を超える。彼女は割り勘にしたいが、手持ちのお金が足りないようだ。結局、彼女は男性が勘定を済ませるのを後ろで黙って見ていた。
二人がいなくなって静かになり、私たちは安堵した。


洪自誠著・菜根譚前集91

貞士は福を徼(もと)むるに心無し。
天、即ち無心の処に就きてその衷(ちゅう)を牖(ひら)く。
嶮人(けんじん)は禍いを避くるに意を着く。
天、即ち着意の中に就きてその魄(はく)を奪う。
見るべし、天の機権の最も神なるを。
人の智巧は何の益あらんことを。

次のような意味だ。
「貞節な人は無理に幸せを得ようとしない。
だが、天はその無欲な姿勢に感じて、幸せを与えてくれる。
心のねじけた人は小細工を弄して災禍を避け幸せを得ようとする。
だが、天はその作為を嫌って、災いを与える。
そのように、天のはたらきは高遠で、人の小細工などなんの役にも立たないことがわかる」
洪自誠の言う「天」は「世間」に置き換えると現代人でも納得しやすい。

洪自誠は明代末の人で、「菜根譚」は16〜17世紀に書かれた処世訓の最高傑作と言われている。
著者は老荘思想から仏教道教に造詣が深かったが、「菜根譚」は極度に宗教的・哲学的ではなく自己啓発の側面が大きい。

私は去年の夏から1年近く、様々なテーマに挑戦しては、ことごとく敗退し、結局生活に窮してしまった。その時、脳裏をよぎったのがこの言葉だった。
「なるほど、あまりに強く成功を望んだために、神様が苦難を与えたのか」と納得した。
以来、心がけを改め、つまらない仕事でも、どんなに安い仕事でも来るものは受けることにした。中には1日働いて1000円にしかならない仕事もあったが、喜んで受けて誠実に働いた。
そのような実入りのない仕事を続けて行くうちに運が上向き、絵が売れて大きな仕事が舞い込むようになった。

世の中の運気が低迷している人は愚痴が多かったり根暗だったりする。
対して、人当たりがよく、いつも明るい人は幸せに恵まれる。

40年昔、赤羽の洋品店で5000円を無くしたことがある。
その時、ポケットには5000円札が1枚しかなかった。その金で3000円ほどのズボンを買おうとレジ係に5000円札を渡した。
レジ係は5000円札をレジにしまってから、まだお金は受け取っていないと言った。
「1枚しかない5000円札を渡したことを間違えるわけがない」と言い張ると、奥から店主が出て来た。
「自分も見ていたが、あんたは金を出さなかった」と言い張った。
店の奥から私の手元が見えるはずはなかったが、結局泣き寝入りをさせられた。
その店はそれから1年足らずで閉店した。
策を労して5000円をせしめるような不誠実さが商売を傾けさせたのだろう。
当時の5000円は今の1万以上の貨幣価値があった。


M_2

9月2日、友人の作品展を見に銀座へ行った帰り、歩行者天国で見かけた人。
アフリカ系の女性で巨大な胸は見かけたことがあるが、日本人でこれほど大きな胸は珍しい。


M_5

彼岸花が開花した。
彼岸花はなぜか縦横斜め、1列になって生える。
土手に登る坂道では手すりから1メートルほどの位置に、人が植えたように等間隔で1列に生えている。


M_1

仕事が忙しくなると、不意に海が見たくなる。
それで11日火曜日に横浜へ行った。
山下公園から海を眺めながらiPodのどの曲がぴったりするか試した。
横浜の風景は女性歌手のアンニュイなJohnny GuitarとSummertimeがとても似合っていた。

公園のベンチでぼんやりしながら、通り過ぎる人を眺めていた。
横浜の女子高生は小生意気で可愛い。
対して赤羽は、ちょっと田舎っぽくて可愛い。
昔の山下公園はアベックばかりだったが、今は一人で来ている人が増えた。
日本社会が成熟したからかもしれない。

インスタグラムやFacebookなどのSNSで、多くの人とでつながっているのに孤独”を感じる若者が増えている。理由は、SNSで"友だち"の豊かな暮らしを見て劣等感を抱くからだ。SNSは現代人の孤独を癒すために生まれたのに、逆につながりの薄さを見せつけられてしまう。互いに虚飾に走らず、本音を語れば良いのだが、正直に話すと却って炎上したりする。SNSは数多くある人付き合いの一つと割り切り、それのみに重きを置かないことが肝要なのかもしれない。

そのようなことから、最近「SNS疲れ」を耳にする。
その反動でスマホをやめガラケーに乗り換える人が増加しているようだ。街中や電車中でも、うつむいてスマホに熱中している人が以前より減った。ちなみに私はiPadは持っているがスマホはない。スマホは年寄りには字が小さすぎるし、出先で作品を見せるには画面が小さすぎる。


「コバエがホイホイ」を衝動買いしてゴミ箱のそばに置いた。絶えず確認しているが、3日目の今も一匹も捕れていない。

我が家で見かけるのはショウジョウバエではなく黒っぽいノミバエだ。
ショウジョウバエは果物やぬか床の酵母を餌にしていて病原菌を運ばない。
それどころか遺伝子研究で人の役に立っている。
対してノミバエは雑食で傷んだ肉などに発生し、不潔だ。

私の仕事部屋にはハエトリグモがいる。
デイスプレーのカーソルを追いかける仕草が猫みたいでとても可愛い。何を餌にしているのだろうと心配していたが、どうやらコバエを捕って暮らしているようだ。だから、コバエを壊滅させるのはまずいかもしれない。

-----------

15日に樹木希林さんが死去。享年75歳。
彼女は私よりピッタリ2歳年上だった。
年の近い人の死は心に響く。
「死ぬときぐらい好きにさせてよ」の言葉が彼女の終末期全てを表現している。
ご冥福を祈る。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

2018年8月21日 (火)

どんなに暑い夏でも終わりは寂しい。脳内麻薬エンドルフィンの簡単な出し方と太宰治考。18年8月21日

「暑いのは嫌だけど、終わるのは寂しい」
タレントの小池栄子がワイドショーで話していた。
その気持ちはよくわかる。
長すぎた夏のおかげで体が熱帯仕様に変化し、今は室温32度でも不快ではない。
うんざりするほど暑い夏でも、終わりが寂しいのは人生に似ているからかもしれない。

公園ではミンミン蝉とツクツクホーシが合唱していた。
彼らの地上での命は2週間ほどだ。だから、彼らには夏の終わりも始まりも関係なく、今が全てだ。

 一片の感傷もなし蝉時雨

60歳になった時、70歳まで〇〇時間とブログに書いていた。
73を過ぎた今は80歳まで〇〇時間などと考えない。残り時間には、60代より切迫した心情がある。だから明日のことは考えず、今をしっかり生きることを心がけている。

今、一番楽しいのは公園のベンチでぼんやり樹々を眺めていることだ。1日、ぼんやりし続けても飽きがこない。私にとってしっかりと生きるとは、ぼんやり過ごすことのようだ。

目の前のソメイヨシノはいつの間にか黄葉が混ざり始めた。地面では蟻たちが忙しく動き回っている。黒く大きな蟻は、子供の頃は山蟻と呼んでいた。噛まれるととても痛いが、自ら攻撃することはない。山蟻よりずっと小さな赤蟻は肉食で凶暴だ。彼らは勝手に靴を這い上りズボンの裾に侵入して、ふくらはぎあたりに所構わず噛みつく。どうやら人を餌の肉塊と思っているようだ。それは痛痒くてとても不快だ。


M_6

夕陽に輝くキバナコスモス。

最近、若い人や豊かな人への憧れがなくなった。
若く豊かだった昔は、恥ずかしいことや嫌なことばかりだ。
歳を重ねた今が一番、心身のバランスが良い。
幸運と不運に差はない。
万物斉同、死を前にすれば誰もが平等になる。
どんなに恵まれていても、確実に老いて死ぬ。


M_5

夕暮れの環八通り。

前回、臨死について書いた。
臨死体験をしなくても、多幸感を生む脳内麻薬のエンドルフィンを簡単に出す方法がある。
極度な苦痛、例えば苦しいジョギングなどをする。
宝くじで1億円が当たった、と想像する。
大掃除をする。
簡単にはできないが、パチンコ、競馬などで大当たりする。
唐辛子たっぷりの激辛料理を食べる。
健康に良くないが、砂糖などの炭水化物と油脂を組み合わせたジャンクフードを食べる。
例えばドーナツなどの揚げ菓子。
私の場合は苦境を切り抜けた時、とても爽快感がある。


M_7

「動物園」タブレットで描いた。

昨夜、Eテレで太宰治を取り上げていた。
私が好きな彼の作品は「津軽」である。
作品で描かれた北国の冷たくて透明な青空に憧れ、幾度も青森を旅した。
小さい頃、子守りをしてくれたタケとの再会。遠くから来た客人を溢れるように歓待する青森の気質。竜飛岬への紀行。生家の ある金木から- 五所川原への情景。
今も当時の旅を懐かしく思い出す。

しかし、代表作の「斜陽」と「走れメロス」は好きになれなかった。
「斜陽」で描かれている貴族社会については「田舎紳士の空想だ」と三島由紀夫が批判していたが、私も同じ印象を感じた。太宰は生家をモデルに田舎の豪農の没落を描けば、もっと力強い作品が生まれたと思っている。

「走れメロス」は太宰そのものだ。
人の弱さを巧みに正当化している姿勢が垣間みえて好きになれない。
「弱くてもいい」と「弱い方がいい」は意味が違う。
太宰はその弱さで同情を買い、二人の女性を死に巻き込んでしまった。

彼の写真は、憂鬱な顔の着流し姿がすぐに思い浮かぶ。
若い頃を含めて、彼の写真は口を閉じた憂鬱な顔ばかりだ。
しかし、終戦直後の「BAR・ルパン」で、気に入っていた軍靴姿でくつろいる彼は笑顔で歯を見せている。
それには理由がある。甘やかされて好き放題に菓子類を与えられて育った彼はひどい虫歯でミソッ歯だった。今の人は歯を大切にするので、ミソッ歯の大人など見かけたことがない。
大地主の出身で長身で2枚目だった太宰にとってミソッ歯は唯一の劣等感だったかもしれない。だからか、どの写真も口を閉じて汚い歯並びを隠し憂鬱な顔で写っている。

彼は32歳の頃、健康に悪いと友人に指摘されミソッ歯を抜いて入れ歯にした。
それ以降の写真は歯を見せた笑顔が多い。その代表作が銀座のBAR・ルパンで屈託なく笑っている軍靴の立膝姿だ。

アドラー心理学では、人は劣等感を解決するために、体験の中から好都合なものを選んで当てはめると分析する。彼の作品もそのように屈折した心が生み出したのかもしれない。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

2018年8月15日 (水)

死と死別について、哲学者たちの考察。赤羽夏景色。18年8月15日

月曜は激しい雷雨が来て近所に幾度も落雷した。過電流で破損しないようにパソコンは止めておいた。
午後3時過ぎ、雷が遠ざかったので散歩へ出た。湿度が高いのは苦手だが、スコールの後は見慣れた街が熱帯に変身し新鮮に感じた。

翌日は35度になったが湿度が低く心地よかった。
午後3時、大汗をかきながらグイグイ歩いた。


M_1

紅白の夾竹桃。鮮明な紅白は珍しい。


赤羽駅近くのドトールで頼まれたロゴを5パターンほど描いた。百席ほどある大型店で長居しやすく仕事が捗る。客は受験勉強の高校生や事務処理をしているサラリーマンなどが多く、皆一人で黙々と仕事をしている。

その中で、お喋りに来ている女性グループはとてもうるさい。リーダーらしき一人が壊れた蓄音機みたいに話し続け、その他大勢は相槌を続けているだけだ。会話に発展性がなく雑音そのもので、耳に入るとひどく疲れる。だから、騒音を打ち消すiPodは必須だ。

明日は15日。
ドトール帰りにイトーヨーカ堂で神棚用の榊を買った。
夜風が心地よく、遠回りしたくなって昔住んでいた赤羽台を抜けた。

旧居あたりはすっかり様子が変わり、マンションなどが建っている。
私が住んでいた20年前は、マンション敷地に木賃アパートと小さな洋品店があった。家主は木賃アパートの住人を追い出そうと、若いホームレスを住まわせた。無精髭の青白い若者は昼夜大音量で歌謡曲をかけ続け、耐えきれなくなった店子たちは自ら退去してしまった。
強欲だった家主は、晩年、重病を病んだ。時折、散歩道で出会うと、好々爺に変身した彼は穏やかに黙礼した。

マンション敷地にあった寂れた洋品店で母はダウンのコートを買ったことがある。どうみても割高に思えたが、母には黙っておいた。
母はそのような店を見ると同情してしまう癖があった。
母の車椅子を押していた頃も、小さな店を見ると、必ず「何か買ってあげなさいよ」と言った。昔の貧乏の苦労がそうさせていたのだと思う。


昭和28年、朝鮮動乱の末期、資材値上がりのため、父は受注した土木工事で大赤字を出して大負債を負った。生活できないと知った母は、躊躇なくコロッケ屋を始めた。
朝3時から家族総出でコロッケを作り、母はコロッケを大きなブリキ缶に入れて背負い、隣町へ行商に行った。しかし、コロッケ屋は巧くいかず半年ほどで廃業した。

その後は市販されたばかりの毛糸編み機を買い入れ、セーターなどを編んで生活費を稼いだ。今と違い、機械編みが手編みより上等とされていた。

食糧難の終戦直後、母は知り合いを頼ってその小さな漁師町に引っ越して来た。母はスラリと背が高く色白の美人で、町では東京から女優さんが来たと噂された。
漁師町で母はちやほやされたが、生活できないと知ると、家族のためにプライドを捨て油まみれになって働いた。母はその頃の辛さを知っていたので、寂れた店をほおって置けなかったのだろう。


M_2

赤羽夕景。
古いビルの角に「飲み放題」と書いたボードを手に美しい人が立っていた。
酔客が思わず声をかけたくなるくらい、美しい人だった。
しかし、鼻の下を伸ばしてうっかり声をかければ、怪しい店へ案内され、ぼられてしまうのがオチだ。
美しいバラには棘。
美女の毒に痛めつけられたいと思うのも男の性だ。


先日のEテレ「世界の哲学者に人生相談」のテーマは「死」と「死別」だった。
古代ギリシャの快楽主義者エピクロスの答えは「我々が存在するときは死は存在せず、死が存在するときは我々は存在しない」
意味は「生きている人に死は理解できない」
事実を説明しているだけで、その答えによって「死」と「死別」の悩みから解放されるとは思えない。彼が提唱した快楽主義の快楽は心が落ち着く全てのことだ。

20世紀ドイツの哲学者ハイデガーの答えは「死を意識するから人生は輝くのだ」
逆に言うと、人生に死がなかったらな、真剣に人生を生きる意欲が失せて味気なくなる。だから人生に死が存在することは素晴らしい。死を肯定したとしても「死」や「死別」の苦悩から解放される訳ではない。

18世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーの答えは「自殺は真実の救済にはならない」
彼は人が苦悩から脱出しようとするとき、心の手術がなされている、と考えた。もし、人が苦悩することに耐えきれなくなって自殺などに逃避すれば、手術は完遂せず、苦悩から解放されることもない。逃避せず、苦しみながら心の手術をやり遂げれば苦悩は本当に解決する。
ハイデガーとは逆に「生の哲学」の先駆けでもあった。

20畝世紀ドイツの社会心理学者で哲学者のフロムの答えは「人生の意味がただ一つある、それは生きる行為そのものである」
人生は頭で考えることではなく、生物として生きていることに意味がある。人はそこまで素直になれないから「死」に悩む。著書「自由からの逃走」で彼は生きる意味を説いた。

戦前の日本の哲学者・西田幾多郎の「死別」の苦しみに対する答えは「後悔の念が起きるのは、自己の力を信じすぎるからだ」と、人は死を左右できるほどに万能でも強くもないと彼は考えた。それは実際の体験によるものだ。彼は8人の子供をもうけたが、そのうち5人と死別した。その死別の悲しみが彼の哲学に大きな影響を与えた。
彼は「純粋経験=ありのままに経験すること」を説いた。そこに老荘思想や仏教を感じる。それらの根本思想は受け身に生きることだ。西田は物事を思いのままに左右できると思うから苦悩が生じると言った。自我が周り影響を与えるとする西欧哲学はその誤謬に陥っている。
「折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰謝である。死者に対しての心づくしである」死別した者を無理に忘れる必要はない。死ぬまで死者の思い出を引きずって行っても構わない。現代のグリーフケアも同じように考える。今回の答えの中で彼の考えが一番納得できるものだ。彼は西洋と東洋の哲学を融合させ、日本初の哲学書「善の研究」を書いた。

私は「自分の死については考えても無駄だ」と思っている。
どんなに死の準備をしても実際の死では役に立たない。
なぜなら、死ぬ時の脳は病んでいて、自我、正義、道徳、悟りなどの知性は消滅しているからだ。人類史の中で膨大な人が死んだが、完全な死を体験した後、生き返って死とは何かを報告した者は一人もいない。(完全な死は蘇生しない状態)。ただし、死寸前の臨死体験や動物実験による死に至る脳の活動の研究例は多く残され、死がどのようなものかはほぼ分かっている。

脳挫傷で死にかけた友人は、頭の激痛が消え、心地よい静けさの多幸感に包まれた、と話していた。無謀な全身麻酔で死にかけた母も、人生の中で経験したことがない美しい多幸感に包まれていたと話していた。

生涯、禍々しきものに遭遇しないで済むなら苦悩はない。実際は不遇、病、死と次々とやってくる。幸せの極意はそれらを恐れないことかもしれない。本当に死ぬ時、脳内麻薬のエンドルフィンが多量に分泌され多幸感に包まれる。だから誰でも心地よく本当の死を迎えることができる。
先日、死刑を執行されたオームの受刑者たちも、死に対する恐怖や苦痛は執行と同時に消え、涅槃寂静の境地に達したはずだ。

ただし、終末期に気をつけなければならないことがある。
回復の見込みのない延命治療を長期間続けるとエンドルフィン分泌機能が疲労し、多幸感が得られなくなる。それこそが本当の無間地獄の苦しみなのかもしれない。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

2018年8月 2日 (木)

近年、ネット進化に反比例して知能指数は低下の一途だ。結果、赤羽の書店は激減し雑貨店化した。18年8月2日

先日の台風前夜、涼しすぎて目覚め、タオルケットを重ねた。
突然の涼しさに晒されると脳は秋が来たと勘違いし、体は寒さ対応に変化する。そこへ再びの酷暑が戻って来た。リセットされた体は酷暑に対応できず、熱中症が多発する。そのせいで、散歩中に必ず救急車に出会ってしまう。

今年は蚊が少ない。意外だが蚊は暑さに弱く、30度を越えると木陰などでじっとしている。
暑さが大好きそうな蝉も同じだ。今日、35度を超えた日中は蝉の声が少なかった。しかし、涼しい夜中になると、うるさいくらい賑やかに鳴いている。

夕暮れ、公園のベンチで休む。周りは樹木に囲まれているので、いつも涼しい風が吹き抜けている。涼しい公園の蚊は元気だ。ベンチに腰掛けると待っていましとばかりに大挙やってくる。先日は、手の甲に食いついた4匹を一度で潰した。蚊は針を皮膚に突き刺すと素早く逃げられない。だから、チクッと感じるのを待って仕留めている。

蚊は遠くまで飛べず、ベンチ周りの草の葉裏などで人を待ち伏せしている。1箇所にいる蚊は多くても20匹ほどだ。だから、わざと血を吸わせ、次々と20匹ほど潰せば蚊はいなくなる。

蚊を観察しているとそれぞれに個性があって面白い。
「人だ人だ!」と喜び勇んで飛びついて血を吸い始める単純な蚊。決断力がなく、止まろうとしては離れ、いつまでも人の周りをウロウロしている蚊と様々いる。決断力がない蚊は卵の栄養になる血を吸うチャンスが少なく、子孫を残す可能性も小さい。
喜び勇んで飛びつく単純な蚊の多くは叩き潰されるが、血を吸うチャンスもあり子孫を多く残す。だから、公園の蚊の中で決断力のない蚊は1割に満たない。


M_1

台風前の東京北医療センターの庭。
日陰が少なく焼け付くような昼間は避けている。

台風来襲前、ベンチ後ろのソメイヨシノに数千匹のアメリカシロヒトリの毛虫が大発生していた。桜の枝葉を一面に覆っている毛虫を虫嫌いの人が見たらおぞましくて悶絶しそうな光景だろう。
それが、台風が過ぎると1匹残らず消えていた。激しい風雨に全て叩き落とされてしまったようだ。地面に落ちた毛虫を丹念に探したが1匹も見つからなかった。カラスなどに食べられ、アリなどが巣へ運んでしまったのかもしれない。
自然は調和がとれている。人が殺虫剤を撒かなくても、自然はきちんと増えすぎた毛虫を駆除してくれる。


M_5

星美学園の夏空。

30年前、赤羽には書店が大中小20軒ほどあった。
今は大中2軒だけだ。私は散歩コースにある中規模の書店を利用している。今日、久しぶりに寄ると店内の様子が変わっていた。書棚がスカスカで本の数が減っていた。殊に雑誌コーナーが寂しい。
代わりに雑貨売り場が広がり、鉢植えの観葉植物から健康器具まで売っていた。
新刊コーナーはテレビ出演で知名度のある評論家やホリエモンなど話題性のある著者ばかりだ。本文はゴーストライターが著者に忖度しながら書いたもので読むに値せず、手に取る気にもなれない。

先日、IT進化に反比例して知能指数は低下の一途だと発表された。原因は、問題にぶつかった時に自分で考えようとせず、スマホ検索に頼ってしまうことにある。検索機能は私も多用しているし、それが一概に悪いとは思わない。しかし、人格が未完成の若者や子供だと、ネット情報を自分で精査せずに無批判に受け入れてしまう。それが知能低下に繋がっているのだろう。

その現実に早くから危機感を持った米国などのエリートたちは、子供がスマホを使う時間を厳しく制限し、できることなら持たせないようにしている。この意識の違いに、ネットに頼って知能低下の一方の大衆と、自分で考え自分で解決しようとするエリート層との格差は開くばかりだ。

最近話題のニュースを目にしても知能低下を痛感する。ゾゾタウンの成金社長と剛力彩芽の色恋沙汰のネット炎上も、ネット記事を無批判に受け入れてしまう大衆の知能低下が根本にある。こんな低俗なニュースは無視するのが正しい対応だ。ちなみに私は、ゾゾタウンは遊園地のお化け屋敷だと思っていた。本当は衣料品の通販サイトらしい。

出版の衰退はネットの普及と関連深い。
アマゾンで本が買えるから書店は不要と反論されるが、それは違う。
立ち読みしながら偶然に素晴らしい本に出会う楽しさはアマゾンにはない。
本の魅力は内容だけではない。装丁の美しさ、紙質、活字、匂いと多様で、じかに触れないと味わうことはできない。書評には頼らず、そのように書店で見つけた良書は数知れない。
アマゾンの通販ではそれができない。アマゾンが文化の平等化を進めた功績は認めるが、近年、功罪の罪の方が目立って来た。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

«赤羽はタレントやモデル希望の若者たちが多い。キロボくん誕生と浅利慶太氏の死に時代の変遷を感じる。18年7月18日