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2006年9月12日 (火)

上越秋景色、日本海。  2002年11月24日

母の体調は安定していて、1日くらいなら一人で留守番ができる。
それで、日帰りで上越市在の絵のコレクターSさんを訪ねた。

あいにく車窓の関東平野は雨交じりの曇天で眺望は悪かった。前日から喉が痛い上、睡眠不足で上越新幹線の中では殆ど寝ていた。?
長大な清水トンネルを抜けると突然車窓が明るくなり、列車は越後湯沢駅に着いた。
雲一つない好天である。一緒に下車した団体客から素晴らしい山景色に歓声が上がった。上越国境とはよく言ったものだ。山を越すと気候まで変わる。

越後湯沢のホームには温泉があった。お湯で顔を洗うと、風邪気味の体が軽くなったような気がした。
越後湯沢でほくほく線に乗り換えた。車窓から振り返ると雪に覆われた谷川連峰が見えた。今までこの線を何度も通ったが、雪の谷川連峰が眺望できたのは始めてだった。
?途中、ほくほく線は上越線から別れ、十日町盆地を南下した。
この盆地は昔は僻地であった。周りの山々は標高1000メートル足らずなのに深山の趣があった。

直江津駅で下車するとSさんが待っていた。
案内された上越市郊外のSさん宅は広い林に囲まれていた。
「お変わりなく、お元気そうですね」
車から降りると、玄関で奥さんが明るい澄んだ声で迎えた。
すぐに客間に通され、奥さんの心づくしの手料理をいただいた。
メインは近くの沼で捕れた鴨である。冷やの地酒も美味かった。
母の入退院、介護、通院、仕事のつき合いと慌ただしかったこの1ヶ月。辛い思いをした後のSさんの暖かいもてなしは心に染み入った。

食後、Sさん夫妻と車で海岸へ行った。
すぐに日が落ちて、黒々とした防風林を風が揺らしていた。
薄暗い日本海を眺めていると、この近辺で多発した拉致事件のことが脳裏をよぎった。Sさんのご子息は子供の頃、夕暮れ遊んでいると「人さらいが出るから気を付けな」と年寄りから注意されたそうだ。

当時、拉致事件など世間では気にも留められていなかったが、現地では、その裏に恐ろしい謀略があることが常識的に知られていた。

漆黒の闇の中を車は進んだ。その濃さは東京とまるで違っていた。
星空は見えず。道路脇の木々の向こうに地味魅了が跋扈しているように思えた。

車は小さな古い町並みを走っていた。「歩道がないので、車椅子の方は大変です」
Sさんは巧みに対向車を避けながら言った。6時前なのに町には誰も歩いていない。それに反して、無数の車が東京並みに途絶えることなく走っている。そのような道路の白線で区切られただけの歩道を年寄りが歩くのは大変なことだ。まして、車椅子では到底不可能に思えた。

柏崎マリーナに着いた。
以前、そこにSさんのヨットが繋留されていた。
私がヨット好きと知ってSさんは案内してくれた。
ヨットハーバーの岸壁にはカンテラを傍らに一人釣りをしている老人がいた。その光景は宝島に出てくる老海賊のような恐ろしさがあった。

それから車は平坦な海岸線を離れ自然林の岬への曲がりくねった道を行った。突然、闇の中に古い立派な料亭が現れた。門を入ると軒下に潮風に晒された見事な亀の木彫があった。広い庭園の照明に釉をかけた黒瓦が光って見えた。雪国の瓦は雪の滑りを良くする釉がかけてある。

案内された部屋の梁は3尺ほどあり、明かりを映し飴色に光っていた。
席に着くとすぐ料理が運ばれた。眼下の海は鯛の好漁場で、メイン料理は鯛の塩焼きである。程良い焼き具合で食が進んだが、慌ただしい日帰り旅である。時間にせかされるように席を立つと、仄暗い玄関に、大正の美人画に出てきそうな女将が見送ってくれた。先程、料理が運ばれた時、給仕するその人の膝が、私に微かに触れていたのを思い出し、出立するのが惜しくなった。

帰りは特急はくたか直江津発7時28分。
Sさんに直江津駅へ送ってもらった。
列車は連休で満席であった。寝ようと思ったが後ろの背もたれが邪魔して背もたれが倒れない。おまけに荷棚が一杯なので、持参のバックを足元に置いた。私は窮屈に体を曲げたまま越後湯沢まで我慢した。

新幹線も満席だった。
隣席の中年夫婦が駅弁を食べ始めた。彼らは高崎で駅弁を食べ終え、次は煎餅、飴菓子とクチャクチャバリバリと大宮まで食べ続け、私は気になって眠れなかった。
中年夫婦の夫は髪を肩まで伸ばした美術団体の幹部風。彼が野性的な男なら気にならなかったと思うが、繊細さを売りにしていそう風体なので一層気分が悪かった。

大宮で埼京線に乗り換えて夫婦から解放された。
座席の暖房が心地良い。私は思い切り足を延ばした。
はす向かいにGI風の黒人若者がヘッドホンを聴きながら寝ていた。東京に戻ってきた実感がして嬉しくなった。私が住む北赤羽まで乗り換えは無い。

11月25日

昨日の喉の痛みは完全に消えていた。
上越郊外に僅かにいただけでなのに、清浄な空気で治ったようだ。
昔、結核の治療に海辺や高原のサナトリウムで開放療法を行っていたことを思い出した。真冬でも窓を開け放って清浄な空気を部屋に満たすだけけで不治の病の結核が治るほどだから、自然の治癒力は偉大だ。

母が20歳の頃、雨の日にお台場の海水浴場で泳いで風邪を引いた。風邪は長引いてこじらせ、結核性の肋膜炎になった。医師に病名を告げられた時、これで死ぬのかと涙がこぼれた。当時の結核は死病で殆どの患者は数年で亡くなった。しかし母は、船橋の海岸にあったサナトリウムに1年入院しただけで軽快した。それからは元気で、89歳の今も腰痛以外は悪いところはない。

今日、子供時代を過ごした日南市大堂津から年賀状欠礼が届いた。亡くなったのはその人のご主人で究竟な漁師だった。彼は新婚間もなく結核を発病し、片肺切除で結核から生還した。一緒にお風呂へ入った時、彼の背中に大きな傷跡が残り、深く凹んでいたことを鮮明に覚えている。
享年83歳、晩年は呼吸困難でさぞ辛かっただろう。母に話すと、仏壇に灯明を上げて冥福を祈っていた。

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