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2006年9月12日 (火)

北鎌倉、サリーちゃんの草履。 2002年12月8日

パロル舎の男性編集者2人、絵描きの女性Mさん、フランス語翻訳の女性、以上4人と北鎌倉駅で待ち合わせた。

昨夜の雨の予想は外れ、時折、小雨がぱらつく程度で助かった。
おかげで観光客は少なく静かな鎌倉行きになった。

最初に円応寺の焔魔堂を訪ねた。
私は32年ぶりである。仏像は京都奈良より、鎌倉の剛直さが好きだ。お堂には先客が4.5人いて、60年配の男性が孫らしい男の子に説明していた。
男の子は閻魔大王と左右に並ぶ十王を恐ろしげに見入っていた。私も子供の頃、そのように年寄りから地獄の話しを聞かされ、恐ろしかった。
今見ると、十王座像の端に安置された脱衣婆(だついばばぁ)が興味深かった。
彼女は三途の川の渡し場にいて、亡者の衣服をはぎ取っては手にした木の枝に掛ける。もし悪行が深いと衣服の重みで枝が折れ、地獄へ送られると言う。

中央の閻魔大王は運慶の作とあった。
運慶が頓死して閻魔大王の前に連れ出された時、自分を彫刻するなら助けてやると閻魔大王に言われ生き返り、運慶は喜び勇んでその閻魔大王を彫ったと言う。あまりにも喜んで彫ったので閻魔像は何となく笑っているように見える、と説明にあった。

円応寺から切り通しを抜けて本鎌倉へ向かった。
初冬の枯れ葉を落とした木々が美しい。最近、母の世話で疲れていたので、静かな鎌倉は安らいだ。

八幡宮は参詣客で賑わっていた。
お詣りをすませ八幡宮境内の池を通りかかるとカワセミがいた。みんなで欄干に寄りかかり、輝く瑠璃色の羽をぼんやり眺めた。中年男女5人は、それぞれに重いものを抱えている。鮮やかな瑠璃色を眺めていた10分ほどの間、少し心が軽くなった。

若宮大路から少し逸れた美術喫茶に皆で入った。暖房が心地よかった。下手な抽象画にアールデコのまがい物、ロシアのイコンと不思議な取り合わせの内装が奇妙だったが、ケーキは美味かった。

参加者はみな酒飲みばかりで、酒屋での立ち飲みの話しになった。
「酒屋で立ち飲みしている方って、失業者や港湾労働者なのでしょう」
Mさんは美大生の頃、酒屋で立ち飲みしている人が怖かったと話した。
Mさんは小田原の旧家の出で、今は売れっ子画家である。立ち飲みする私も常時失業中なので、彼女の言っていることはあながち間違ってはいない。皆は彼女のお嬢さんぶりに爆笑した。

美術喫茶を出て鎌倉駅から江ノ電へ乗った。
3両編成の一番前は古い木製床で懐かしい。私は先頭運転席の傍で家々の間に続く単線の線路を眺めた。

三つ目の長谷で下車して、500メートル程歩いて大仏さまを拝顔した。こちらも久しぶりの再会である。他の中年たちも小学生以来の再会で、子供のようにはしゃいでいた。大仏さまは記憶にあるより小さく見えたが、冬枯れの山を背景にした姿は静謐で美しかった。

境内に巨大な大仏様の草鞋が飾ってあった。私は意味が分からなかったが、Mさんと編集の川畑氏はサリーちゃんの草履だと喜んでいた。二人は同い年である。どうやら子供の頃見たアニメのサリーちゃんにそのような巨大な草履が登場したようだ。

長谷観音から海が見たかったが、すでに真っ暗なので諦め、近くにあるメンバー旧知の喫茶店へ行った。経営者は大手出版の編集者で、店には立派な書棚があり、出版人らしい知的な内装だった。

店の人に薦められた紅茶は不思議な花の香りがした。
皆に持参していた近作のプリントを見せた。
絵には私のイニシャルMAがサインしてあった。
「私の本名はマー・ピンポウで、実は不法就労の中国人なんです」
隣に座っていた、女性翻訳者に耳打ちすると、彼女は真に受けていた。

鎌倉駅へ路線バスで引き返した。
観光コースを外れた今まで知らなかった鎌倉の町並みが珍しい。
小町通りへ出て、小料理店へ入り夕食をとった。
日本酒の熱燗が美味い。9時半に店を出て帰路に着き、小田原へ帰るMさんとは大船で別れた。
「そして、一人になった」と言った戯曲があったが、そのように次々とメンバーは下車して、最後は私一人になった。

12時に帰宅した。
「お帰り。今日は楽しかったの」
寝ていた母はドアが開く音で目覚めて声をかけた。
「まあね・・」
私は曖昧に返事をした。
今は深夜帰宅しても母が「お帰り」と言ってくれる。しかし、やがてその言葉はかけられなくなるだろう。
椅子に深々と腰掛け、何となく切なくなった。

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