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2006年9月15日 (金)

女畑の灌漑用水路工事 2003年1月16日

パソコンをつけるとHappy birthday!の表示が出た。
niftyからも「誕生日おめでとう」のメールが届いていた。

「今日は何の日だ」
母に聞いた。
「天皇陛下の前立腺切除の日でしょう」
母は変な事を記憶している。
「成人式は終わったし・・・」
母は考え込んだ末、ようやく私の誕生日に気付いた。

私は昭和20年の今日生まれた。
敗色濃厚な当時、建設省技官をしていた父は九州日田市山中の女畑(おなごはた)で食料増産の為の用水路隧道工事の指揮をしていた。

1月16日は母方祖父の命日でもある。前日、臨月の母は法事の為に前日から日田市内へ下山した。ついでに日田市豆田にある産婦人科に寄ると、産まれそうだから帰らない方が良いと入院させられた。その夜から陣痛が始まり、翌16日夕刻に私が生まれた。
生まれた地名を地図検索してみると、名前が変わったが産婦人科病院は今も同じ場所にあった。

父の用水路建設は難工事で、多くの徴用朝鮮人が使われていた。そのように書くと強制連行に過酷な労働と思われる。しかし、母の話ではかなり違う。

これは例外的な事例かもしれないが、朝鮮人労働者へは、当時の一般日本人より潤沢な食料が配給されていた。彼らへ正当な扱いができたのは、国家直轄の重要工事で、当時日本人だった朝鮮人労務者への労働規定を遵守したからだ。戦前の日本の官僚は清廉だった。

母はしばしば、労働者宅に食事に呼ばれ、山中にも関わらず、海の魚等を潤沢に使った豪華な食事を御馳走になった。
「監督官の妻への接待の為、無理をしたんだろう」
反論したことがあるが、母は強く否定した。
母は女同士の付き合いで彼らの家族に溶け込んでいて、日常生活をよく知っていた。
その時は接待用の御馳走であったとしても、普段の食事も当時の食うや食わずの一般日本人よりずっと上等だった、と話していた。

彼等は砂糖や牛肉も潤沢に持っていた。
地元農民たちは、自分たちの灌漑工事の為に働いてくれる彼等を大切にしていた。
女畑は米が出来ない土地である。彼等は配給された砂糖や米と交換で地元民から牛を手に入れ、密殺して母に牛肉を分けてくれていた。

戦後も工事は続き、我が家は彼等の差し入れで助けられていた。
しかし、父は上司と喧嘩して辞職してしまった。
それで私の1歳の誕生日前に食糧事情良好な南九州の小さな港町日南市大堂津へ引っ越した。

その後、世渡り下手な父のおかげで、私達の生活は激しく乱高下し続けた。
「役人を続けていてくれたら楽だったのに」
母は時折ぼやいた。しかし、もしそうだったら私は生活が難しい絵描きにならず、平凡なサラリーマンになっていたと思っている。

父が辞職した後も女畑の感慨用水路工事は続き、昭和35年に完成した。
後日、米作が可能になった女畑の村長から、父へ錫製花瓶と感謝状が届いた。

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