風の音。2003年1月30日
自然公園の日溜まりで母を休ませた。
日差しの中、枯れ草を揺らして過ぎる風の音聞いていたら、祖母が死んだ日を思い出した。
私が28歳の頃、母と協力して祖母を介護し看取った。
父は私が38歳の時に、母と協力して介護し看取った。
兄弟は多いが、それぞれに家庭内に問題を抱えていて親の面倒を見ることは難しかった。それで「俺がまとめて面倒見る」と見えを張り貧乏くじを自ら引いた。後で「とんでもないことを引き受けてしまった」と後悔したが後の祭りだった。
祖母は5月1日の爽やかな晴の日に死んだ。
ツツジが満開の爽やかな日で"今日は死ぬのに良い日だ"のインディアンの言葉がぴったりの日だった。
遺骨は紅型の艶やかな風呂敷に包み、母と長兄が九州の菩提寺へ運んだ。風に揺れる新緑の木陰道を、何度も振り返りながら去っていく母と兄の後ろ姿が今も目に焼き付いている。兄の姿を見たのはそれが最後で、翌年の10月、中学教師をしていた兄は学校で脳溢血を起こし42歳で急死した。
父が死んだのは6月1日。
葬儀屋が風の強い晴れた日には人がよく死ぬと話していたが、その通り、前日からの快晴に轟々と風が吹いていた。
そんなことがあったせいか、私は風の音が好きだ。
風の音を聞くと、子供の頃に遊んだ裏山や海辺の松林を思い出す。
だから、自然公園で休んでいる時も、いつもぼんやりと風の音を聞いている。やがて母は逝くだろう。その時、風の音を聞きながら、杖をついて、そろそろと歩く母の後ろ姿を思い出すかもしれない。
午後から、2年ぶりに神楽坂のラボへ絵の撮影に行った。
少しの間に街の様子はかなり変わっていた。いつも客が入っていなかったレストランは、エスニックの調度品屋に商売替えをしていたが、以前と同じく客はいない。店主がショウウインドウ越しに客待ち顔で通りを眺めている姿は寂しげだった。
江戸時代から続く古刹の木々の茂っていた境内は、霊園に変わっていた。
デジカメの影響で銀塩フイルムが減少し、ラボもまた縮小を重ねていた。
近く新橋に移転すると、顔馴染みの社員がこっそり耳打ちした。昔は来客が引きも切らず、受付の女の子が10人近くいたのに、今は古株一人だけになってしまった。
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