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2006年9月19日 (火)

宗教と文明の戦い。 2003年2月23日

大阪の知人から、150億を自宅の金庫に現金で持っている金持ちの話を聞いた。50代のその金持ちの最大の不安は自分の健康らしい。もっともである。そんな大金は彼の余生では使い切れない。まして、余生の半分は老いて遊ぶ気力も萎えている。多分彼は、世界中の最高の医療施設に大金をつぎ込み、若さを得ようとするだろうが、それも無理である。結局、彼は大金を抱えたまま老いて死ぬのである。大金を傍らに、死を目前にして悔しがる老いた彼の姿が目に見えるようだ。その点、貧乏な私にそんな悩みはない。最近では生活に疲れ、早く人生を終えたいとさえ思っている。

今は車椅子の母を連れて自然公園へ散歩へ行くのがささやかな楽しみである。自然を眺め、訪れる老人や子供たちを眺める。公園には、母だけでなく沢山の老人がリハビリの為に来ている。弱った体に杖をつき、歯を食いしばり歩く姿は崇高さを感じる。弱者は社会へ何も与えない、と考えるのは間違っている。弱者が立派に生きている姿を目にする事で、健常者は知らず知らずの内に、生きる勇気を貰っている。

老いたり失ったりした時の考えの違いで、幸せにも不幸にもなる。
旧知の柴犬は失明したが、彼は失明したことを少しも悩んでいない。彼は健常時と同じく、女好きで食いしん坊で遊び好きである。これが人であったらどうだろう。多分、何度も自殺を考えただろう。相当に達観しなければ、失明の辛さは乗り越えられるものではない。だから、失うことを恐れるなと多くの宗教で説いている。

宗教は文明と矛盾する。失うことを恐れたから人類は発達した。だが、文明は人の苦悩を根本的には何も解決しないことを知り、その対極に宗教が生まれた。文明は大好きであるが過信しない。同時に宗教も過信しない。いずれも、先鋭化し熱狂すれば戦いになり、不幸をもたらすだけだ。

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