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2006年9月12日 (火)

崖の上の家。吉原、遊郭。 2002年8月2日

今夜は我が家から北西2キロの戸田橋の花火大会だ。
日暮れ前から花火の音が聞こえた。
13階の我が家の玄関前通路へ出ると正面に花火が見えた。
花火は本気で眺めたことは無い。4年前、こちらへ引っ越してきてすぐの花火大会で、隣家の酒の宴に誘われた。そのころのこの集合住宅には昭和の近所付き合いが残っていた。その時も、花火の地響きのような音に聞き入るだけで、眺める気はなかった。
子供のころの打ち上げ花火はワクワクするほど楽しかったのに、大人になってから急速に興味は冷めてしまった。

A8_3gしかし、毎年、玄関に椅子を置いて母を座らせて眺めさせた。
来年、母は90歳を迎える。今年と同じように花火見物をさせるのは難しいかもしれない。
母の若い頃は長身で姿勢が良かったが、85歳を過ぎた辺りから背中が丸くなった。今は腰を痛め、足元もおぼつかない。母が花火を見ている間、私は玄関脇の仕事部屋で花火の音を聞きながら絵を描いていた。
「お元気ですね」
時折、玄関前通路を通る人が母に声をかけた。
母が楽しそうに会話する声を聞いていると、しみじみとした幸せを感じた。それが花火の温もりなのかもしれない。

9月9日
ようやく劇団四季のポスター原画を納品した。
すんなりと宣伝部の承諾を得られれば安心だ。
しかし、そうは行かずクレームは必ずつく。

先日、深夜映画「吉原炎上」の録画を見た。
母は事実と違うと怒りまくっていた。
母は大正中期の久留米の遊郭を知っている。
何故なら、祖父は遊び人であちこちに女を作っていたからだ。
当時は本妻が夫の愛人に届け物をする習慣があった。祖母は女と会うのが嫌で、幼い母を自分の代理として挨拶へ行かせた。幼い母は人力車にを乗って、祖母が持たせた反物を届けた。

挨拶先には遊廓もあった。
遊郭では賓客の娘が挨拶に来たので、下にも置かず歓待してくれた。
遊郭は現実を忘れさせるため、ファンタジックに作られていた。それは極彩色の竜宮城のような、ディズニーランドと歌舞伎町が合体した楽しさだった。

幼い母は時には長居して、父親の愛妾と遊郭の大きな風呂に入れてもらったことがあった。その時、今で言うビキニのような下着を女がつけていたのを母は明瞭に記憶していた。それが遊郭の入浴時の礼儀であったのか真相は判らない。
常々、母の趣味に過激さを感じる。母は大の手芸好きで、刺繍から編み物、ビーズ細工と手当たり次第に熱中した。ただ、その色使いや造形は年寄りらしくなく過激だった。その感覚は遊郭での原体験が大きく影響しているのかもしれない。それにしても、幼い女の子を遊郭へ行かせる祖母の感覚も過激だった。

祖母は生涯、一度も料理裁縫をしたことがなく、明治の女としては極めて稀な生き方をした。母に料理を教えたのは祖母の実父甚兵衛で、彼は西郷軍に従い城山へこもった程に血の気の多い人だった。
そして、手芸を教えたのは遊び人の祖父健太郎だった。

母は「吉原炎上」の遊女たちは品がないと不満だった。
母が知っているのは九州久留米の田舎遊郭だったが、映画で描かれていた遊女たちより、話し言葉も姿も優雅で気品があったようだ。
吉原は江戸300年で磨き上げられた最上の遊郭だ。
久留米より数等品格は上だったはずだ。
映画人はなぜか、苦界の闇を増幅して描く傾向がある。

S_128歳の頃の母。1921年、101年前の写真。
母は一人で写真館へ出かけ、ツケでこの写真を撮ってもらった、と話していた。
この日傘が気に入っていたのだろう。
写真代金は後日、祖母が払った。

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