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2006年10月11日 (水)

虚空蔵島  2003年10月1日

10月になったのに暑い。Tシャツでも汗をかいた。
緑道公園では近所の小学生たちがスケッチをしていた。子供の絵は楽しい。男の子たちが墓の絵を描いているのが可笑しかった。描き飽きた男の子はバッタ取りに夢中になっていた。

子供の頃、私はスケッチ大会が大好きで、小学校毎に4,5人程がグループになって大会場所へ出かけた。スケッチ大会が開かれた場所の一つは南九州の南郷町目井津にある虚空蔵島である。島と言っても浅瀬で陸と繋がっていて、堤防を兼ねた通路で渡ることができた。
島は名前の通り虚空蔵菩薩を祭った神域である。亜熱帯の原生林の中に古い社があり、虚空蔵菩薩の使いとされるカラスが多く住み着いていた。虚空蔵島を繋ぐ堤防の一角には壊れた軍の施設らしきものが廃墟のように残っていた。

この地域は海軍基地が多く、私の育った大堂津には震洋特別攻撃隊基地があった。震洋特別攻撃隊とはベニヤで作られたボートに爆薬を積み敵艦艇に激突する特攻隊である。大堂津港後方の崖にトンネルがあり、攻撃艇が収容されていたと聞いた。

結局、米軍の本土上陸はなく大堂津の特攻隊は出撃のチャンスないまま終戦を向かえた。大堂津の兵士の殆どは生還できたが、訓練中の事故死はあったようだ。仮に攻撃チャンスがあったとしてもベニヤ製のボートでは、小口径の機関砲で簡単に撃沈させられるので、戦果は難しかったと思う。

軍基地へのグラマン戦闘機による機銃掃射は頻繁だった。上学年の子供の中には、機銃掃射に逃げまどった者が多くいた。大堂津と目井津の間を流れる細田川に架かるJR鉄橋には今も機銃掃射の穴が数多く残されている。

虚空蔵島のスケッチ大会へは細田川の渡し船で目井津側へ渡り、歩いて5,6分の距離にあった。船は平底の川船で、今でも対岸に着いた時の船底が砂の浅瀬へ乗り上げるザザザッと音をたてる感触を思い出す。
細田川にはアサリが無数にいて子供でも簡単にバケツ一杯は採ることができた。細田川の清流に生息するアサリは臭みもなくまるまると太っていてすこぶる美味であった。

渡しの船頭は都会でダンス教師をしていた人で戦火に焼け出されその港町に住み着いた。この地方はよそ者に優しく、終戦後、豊富な魚介類に惹かれて都会者が多く流れ着いていた。かく言うと私の家族もそのような流れ者の一つであった。ダンス教師の船頭はいつの間にかいなくなったので、本職に復帰したのだろう。健在なら母程の歳である。

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