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2006年10月14日 (土)

装丁が出来た日に再入院の連絡があった。   2003年10月21日

駒込病院から来週27日に再入院と電話が入った。
1週間先のことなのに、母は遠足の前の子供のように入院準備に熱中している。手術になっても、肝動脈閉塞術になっても、危険はないと信じている。
執刀医師は厭になったら施術寸前でも断って良いと母に言った。だが母は肝臓ガン手術の高齢記録を作ろうとはりきっている。結果が何であれ、私は母に好きなように任せることにした。
しかし、気が重い。術後の体力低下は避けられず、一旦低下した体力を回復させることは90歳の母には大変難しい。

 今日は眠い。久しぶりに装丁絵を今朝まで描いていた。寝不足のまま再入院の準備で駆け回り、帰宅した午後4時に編集のAさんが絵を取りに来た。
Aさんは13階からの雨に霞む地上の風景に見入って、しきりに感嘆していた。この住まいを選んだ理由は眺望の良さである。ベランダ側は感状8号線、玄関側は新河岸川と眺望を塞ぐ建物が無い。最初にこの住まいを見に来た時は夕暮れで、富士山から奥秩父、浅間へと、壮大な夕日が一望出来た。私は引っ越し先は母の終の住みかになると思っていた。だから、この素晴らしい眺望の住まいを母の死に場所に相応しいと思った。

仕事部屋のすみには布団が折りたたんだままで、空いている床は下描きの紙で埋まっていた。部屋へ妙齢のAさんを入れるつもりはなかったので、ゴミは片づけないでいた。しかし、話の流れで仕事部屋へ入ってもらうことになり、ゴミを避けて座らせた。
話が弾みAさんは長居してしまい、帰る頃は夜になっていた。雨の止んだ夜景が広がり、その中を新幹線が過ぎて行った。Aさんは夜景を眺めながら子供っぽく喜んでいた。
新河岸川を跨ぐように埼京線北赤羽駅がある。各駅停車の電車が北赤羽駅へ入るのが見えたが、急いで行っても間に合わない。次の電車まで暫くAさんと風景の話をして別れた。

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