« 田端、池袋情景   2004年6月1日 | トップページ | 伝統工法建築はナチュラルカラーで美しい。 2004年6月10日 »

2006年11月 6日 (月)

年を取ることは、様々な喪失感に耐えることだ。 2004年6月6日

整形外科とデイサービスで二日続けて母の散歩を休んだ。
デイサービスは来週から東京北社会保険病院に併設された介護施設「さくらの杜」に代わるので、今までの西が丘園はそれが最後の日だった。理由は何であれ、終わりには一抹の寂しさがある。

知人が50年以上住み慣れた都心を離れ、郊外の介護施設に入った。
その人は寂しさに耐えかねて「死にたい」と漏らしていた。この喪失感は深くて暗い。

若さの定義づけは簡単なようで難しい。
肉体的能力、社会的地位、家族、友人知人、それらの喪失感が老いを表すのでは、と最近思うようになった。自分の経験でも、若い頃は喪失感は殆ど無かった。失ってもすぐに取り返せる自信があったからだ。
たとえば引っ越しでも、転居先での新しい出来事などに期待でわくわくした。
18で九州から上京する時も、郷里には何の未練も無く、東京生活への期待で爆発しそうだった。

20代の頃、3年暮らしたアパートを引き払った時、大家さんに迷惑をかけたので、菓子折を下げて挨拶に行った。彼女は今の私くらいの年頃で、空になった私の部屋で拭き掃除をしていた。
「お世話になりました。」と照れながら菓子折を差し出すと、その人はいきなり泣き出した。そんな関係ではないと思っていたので、とても不思議だった。しかし今、彼女と同じ年頃になって、彼女の気持ちが良く分かるようになった。

住まいのある13階の数軒隣りに、韓国から仕事できている若夫婦が住んでいる。
4つ程の男の子がいて通路で遊んでいたりする。子どもの少ない集合住宅なので、子どもの声が仕事部屋へ聞こえるのは珍しくて楽しい。しかし、それは数年で聞けなくなるのである。そしてその頃は、肝臓ガンを抱えている母は死んでいる公算が大きい。
そのように、年を取るとは次々と訪れる喪失感に耐えることだ。喪失感に出会う都度、どう乗り越えて行くのか、これは古来から人類の永遠のテーマだ。

今日は雨の中、母の車椅子を押して赤羽自然観察公園へ行った。自然はいつ見ても素晴らしく、今日も厭なことを忘れさせてくれた。そのように自然の中に、喪失感を乗り越えるための大きなキーが隠されているような気がしてならない。

|

« 田端、池袋情景   2004年6月1日 | トップページ | 伝統工法建築はナチュラルカラーで美しい。 2004年6月10日 »