敗戦後混乱期の白パン 2004年7月10日
今日は風が吹いて凌ぎやすい。昨日まではシャツが重くなるほど汗をかいた。
暑くても、生命溢れる夏は好きだ。今日の赤羽自然観察公園には腰明トンボが飛んでいた。
5月始め、毎日、緑道公園のベンチに若者が腰かけていた。ホームレスになりたてのようで、始めは身だしなみはこざっぱりしていたが、最近は日に焼けて、立派なホームレスの風貌に変わった。正社員は無理でも、アルバイトならいくらでもある時代である。だから、若い彼に同情はしない。しかし、仕事が見つからない老ホームレスは気の毒である。
母は暑さに負けずに歩いてくれるので助かる。
人は古来、暑さ寒さの中で生きてきた。不自然に空調の整った中で生活することが良いわけがない。医師は冷房を薦めるが、私は冷房なしで、暑さに耐えるのが母の健康維持に大切だと考えている。
今日は土曜で、親子ずれに沢山出会った。道一杯に子どもと手を繋いで歩く親子がいたが、私は道脇に車椅子を寄せて、彼らが通り過ぎるのを待った。親子は一礼もせずに過ぎて行った。
次の家族連れは、私たちの車椅子を見て、子どもたちを道脇に寄せ、軽く会釈をして見送ってくれた。
母はそれがとても嬉しかったようで、昔のことを話し始めた。
昭和25年、博多で仕事をしていた父を訪ねての帰りのことである。
日豊線門司近くで赤ちゃんを背負った母子が乗車してきた。
敗戦後で列車は混み合っていた。
「お前達は、運賃を払っていないから立ちなさい。」と母は私と姉を座席から立たせた。
私達は元気な田舎の子だったので、立っていても平気だった。
その母子は席を譲って貰ったことがよほど嬉しかったようで、私達にパンをくれた。食糧難時代の貴重な本物のパンである。当時はパンと言えば代用パンばかりで、糠や雑穀の粉末が増量剤として入れてあり、パサパサ堅く色も灰色に近かった。しかし、そのパンは真っ白でフワフワしていた。私と姉はすぐには食べず柔らかいパンを頬に当てて喜んでいた。その人は進駐軍関係の人で、それは米軍へ納品する上質のパンだっだ。
母は良いことをすれば良いことがあると言いたかったのだが、今も、あの白パンの柔らかさと、美味しさを思い出す。私はあの白パンをもう一度食べてみたくなった。
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