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2006年12月13日 (水)

美しい夕日と事件  2005年1月20日

先日の母の下痢はノロウイルスであったようだ。
私も少し遅れて感染し、昨日から軽い下痢になった。下痢は直ぐに収まったが、胃の不快感は残っている。年末からの寝不足がたたって感染してしまったのかもしれない。おかげで、散歩は休んで一日中眠っている。しかし、食事の支度と洗濯は休めない。今回、介護する側が病気になった場合の大変さを心底思い知った。

昨日は食欲がまったく無く、テレビで料理の画像を見ただけでオエッと吐き気がした。殊に甘いものがダメだである。しかし、今日は最中を美味しく食べることができた。この分では、明日は正常に戻ると思う。

午後、気分が良くなったので、1階へ郵便を取りに行った。
エレベーターを出ると、知らない女性がかただならぬ様子で声をかけてきた。落ち着かせながら問い直すと、人がこの建物から駐車場へ落ちたらしい。ビックリして行くと、駐車場の屋根がへこみ、男性の頭が見え血が滴り落ちている。慌てて携帯で119番をかけた。

場所は地上3メートル程の屋根の上で近づくことは難しい。駐車場の屋根がクッションになって命は助かったようで体は動いている。
「すぐに救急がきますから、頑張って下さい。」と大声で声をかけ続けていると、5分程で、消防車と救急車がやって来た。足場の悪い所の事故では消防車も一緒に来ることになっている。

警察に事情を話していると、70代半ばの母親が駆けつけてきた。親子は9階の住人で落ちた男性は48歳無職。病院に通院中のようだ。同居の母親が大きな物音で子息が落ちたことを知り、私より早く通報したようだ。男性はあちこち骨折はしているが、命は取りとめるように見えた。何があったのか知らないが、母親にはとても辛いことであろう。正月早々、見たくないものを見てしまった。

1月21日

今日も素晴らしい夕暮れ。
昨日の事故の時も、消防車、救急車、慌ただしく動き回る救急隊員たちを美しい夕日が照らしていた。それらはSF映画の1シーンのようで、不幸な事故であるにも関わらず、私は鮮やかな消防車の赤や点滅するライトに見とれていた。

今日夕暮れ。厳冬の冷たい風の中、母の処方箋を持って薬局へ出かけた。
事故現場脇を通ると、男性の倒れていた屋根の下には車が駐車していた。もしかすると、持ち主は事故のことは知らないのかもしれない。田舎ならたちまちの内に広まる大ニュースなのだが、東京ではこの小さな地域であっても噂は広がる前に消えてしまう。昨日と同じ美しい夕日に比して、あまりにも虚しい事件であった。

東京北社会保険病院下の桜並木には3軒の薬局が生き残りを賭けて競争している。馴染みの店へ行くと、直ぐにお茶が出た。どの薬局も大きなチェーン店の一つで、経営の心配はない。私は無責任にサービスを享受すれば良いだけで、気楽である。

母は先日の下痢が治った後から風邪気味で、夜になると咳がひどい。その都度、母のベットへ行き背中をさするが、深夜の暗がりの中で、苦しむ母を見ながら、漠然と死を感じる。
このところ、母は大変元気だったので、高齢であることや、脆い体調であることを、つい忘れていた。今回新しく処方された、咳止め、抗生物質、等で小康を得るかも知れないが、むしろ、今の母の状態が本当は年相応の姿なのかもしれない。

母の世話をして自室に戻るとふいに遠い昔の記憶が蘇る。授業中の小学校に母が来て、私を早引きさせて隣町日南市油津の映画館へ連れていってくれたこと等だ。

観せてもらったのは殆ど洋画で、昭和20年代の名作は総て観ることができた。名作の記憶は、現実に体験したように記憶に残っていて、今も私の作品に大きく影響している。ミュージカル「雨に唄えば」「オズの魔法使い」等のアメリカ映画から、イタリア、フランスの新リアリズムの名作群まで語り尽くせない程多様である。

映画の後は、油津港の岸壁で母の作った弁当を食べた。記憶の中の港の風景は、いつも今日のような美しい夕暮れだった。後年、そのことを母に聞くと、父が事業で失敗した頃で、押し寄せる借金取りが厭で、母は私を連れて映画に逃げていた、と話していた。理由は何であれ、今の私を作り上げるに、それらは得難い体験であった。

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