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2006年12月 1日 (金)

方言、江戸言葉、酉の市。 2004年11月5日

朝の連続ドラマ「わかば」の舞台、日南市飫肥は私の育った町近くである。NHKなので方言指導は力が入れてあるが、育った私にはかなり違和感がある。使われている方言は日南ではなく宮崎弁に近い。

日南は険しい山地で宮崎とは隔絶されていて、鹿児島の言語圏に近い。元来、鹿児島の大隅は飫肥藩に属していて同じ言語圏である。
私は11歳まで日南で育ち、宮崎市に移った。その時、一番厭だったのは言葉の違いだった。日南の言葉が柔らかく優美な語韻であったのに比べ、宮崎弁は野卑な感じがした。
18歳で上京したが、それまでの8年間、結局、宮崎弁に馴染めないまま標準語に移行してしまった。最近は出席しないが、同窓会で懐かしげに宮崎弁を喋る者がいるが、私は今も違和感を感じる。

先日、酉の市へ行った時、王子から都電荒川線で三ノ輪まで行った。乗り合わせた乗客は老人ばかりで、私の隣で、昔話しをしているお婆さん達がいた。それは戦前の江戸言葉で、聞いていて心地よかった。
「・・・元浅草4丁目と言われても、わかんない。菊屋橋と言ってくれればすぐに分かるのに・・・」と、始めは疎開の話しだったのが、町名変更が厭だと言った話に変わった。

私が上京した頃は総て旧町名で、当時買った区分地図は今も大切に持っている。
たとえばその中の菊屋橋は町名は消えたが交差点の名として残っている。ただ、これから向かう酉の市隣の、樋口一葉が移り住んだ竜泉の町名が残っているのは嬉しい。

竜泉は彼女には辛い時代であるが、あの移転が奇跡の14ヶ月と呼ばれる充実期を生んだ。彼女がもし、普通の生活と健康な体を得ていたら、「にごりえ」「たけくらべ」・・・等々の名作は生まれず、多分、短歌の上手い女性としか歴史に名を残さなかったはずである。運命はいつも皮肉である。

酉の市へ行く前に一葉記念館に寄った。一葉の毛筆で流麗に書かれた直筆原稿を見たが、どれも見事な巻物に装丁されていて高価に見えた。彼女は原稿が売れ出しても貧乏には変わりなかった。もし、今の価値で、彼女の直筆原稿が売れたら、どれ程助かったか分からない。それはゴッホや、他の貧乏絵描き達にも言えることだ。

後日、そんな話しを知人に話すと、お前も死んだら、絵が高くなるよと言っていた。冗談じゃない。死んでからはどうでも良い。生きている今を楽しみたい。

◎酉の市は、左サイドバーの写真日記に掲載。日付を参照してスクロールして欲しい。

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