元旦に、父の晩年を悔いる 2005年正月元旦
除夜の鐘を聞きながら神棚仏壇の水を替え、御神酒を上げ、仕事用の水を替えた。
それからお屠蘇を飲み、近所の神社に初詣に出た。溶け残った雪が氷結しているので、慎重に歩く。初詣の人出は少なく、殆ど並ぶことなくお参りが出来た。
帰宅しても直ぐに寝る気になれずテレビを付けた。つまらない番組ばかりである。
何故か、80歳で死んだ父のことを思い出した。
父の最後の仕事は経営コンサルタントである。父は1級土木建築士の資格があり、真面目に働けば生活に窮することはない人生だったが、山っ気が多く数限りなく借金を重ねた。
最後の経営コンサルタントは失敗の経験を生かそうと思ってのことかもしれない。仕事場は新橋駅前の安喫茶店である。何故、喫茶店と分かったのは、父が仕事仲間と電話で話している内容が聞こえたからだ。私の家族は皆、声が大きく秘密を保つのが下手だ。
集まる仲間は、父のような役人崩れや、サラリーマン落伍者が多かった。
父が仕事で出かける都度、私は煙草臭い喫茶店に鳩首して怪しい計画を巡らす老人達を想像した。
父は経営コンサルタントの立ち上げの時、綴じてファイルにするために、数千枚の名刺に穴を明けてくれないかと私に頼んだ。私は忙しく、文字を傷つけるのもかまわずに乱暴に穴を明け、父へ渡した。父は黙って受け取りながら寂しそうな顔をした。
私は、また下らない計画を立てて、と不快に思っていた。しかし今、その寂しそうな父を思い出すと、もう少し丁寧に穴をあけてやれば良かった、と悔いが残る。
当然のことだが、落伍者の父にまともな仕事の依頼はなかった。
依頼があるとすればうさん臭い仕事ばかりで、その内、父は仕事先の保証人を引き受けてしまった。
後はお決まりのコースで、社長は借り入れた資金を持ち逃げして、残された父は猛烈な闇金の取り立てに会い、体調を壊し死んだ。
実際の闇金の攻撃は、父をかばった私に集中していた。私は頑として拒否したが、死ぬ程の恐怖を味合わされた。その地獄の日々は、1年後の父の死で終結した。
そのような父を思い出しながら、私は父の歳、80まで生きられるだろうかと思った。
元旦早朝、住まい下へ降りて雪の具合を確かめたが、車椅子を押せる状態ではない。散歩は昼過ぎに変更した。
お昼を済ませ出かける準備をしていると姉が文明堂のカステラを持って年始に来た。姉は母に近況を話し、昨日私が煮上げたガメ煮を小分けして持ち帰った。
日向の雪は消えていた。しかし、日影の坂は厳しく凍っていて、私は後ろ向きに車椅子をグイグイ引きながら進めた。
午後の自然公園へ母を連れていくのは始めてである。太陽は午後2時で早くも沈み始め、カラスが鳴きながら飛んで行くのが侘びしかった。
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