今は遠い、金へん景気の頃 2005年6月6日
緑道公園を通ると、いつものように、スズメ達が餌をねだった。集まって来たのは7,8羽で、遅れて来た一羽が母の目の前をかすめて飛んでいった。母は一瞬、木の葉が舞ったと錯覚していた。
「スズメは小さくて、大きな蛾くらいしかないね」と私が言うと、母は昔のことを話し始めた。
田舎暮らしの子どもの頃、夕暮れになると明かりを求めて裏の畑からスズメ蛾たちが飛んできてバタンバタンと音をたてて障子にぶつかった。スズメ蛾はその名の通りスズメ程の大きさだ。私達は食卓に蛾の鱗粉が舞わないように、大騒ぎして捕まえて捨てていた。母はそんな夕暮れの大騒ぎを懐かしく話していた。
いつものように、古民家で休んでいると、老人の先客がいた。
いつの間にか話しかけられて、昔の話になった。話の内容から、私より少し上のようだ。赤羽の在の人で、昔の赤羽の様子を聞けて面白かった。
赤羽台団地が出来る前は米軍の用地で、子どもだったその人は鉄条網をくぐり抜けて、鉄クズや薬莢を拾って、お小遣いにした。時々、MPに見つかるが、彼等は子どもには優しかったようだ。それは、金へん景気の朝鮮動乱-昭和25年〜28年-による特需の頃だ。
私はその頃、南九州日南市大堂津にいた。私もその人と同様に鉄クズや銅線を集めては小遣いにしていた。当時は砲弾等に使う非鉄金属の高騰は凄まじく、銅線を小玉西瓜くらいに纏めたものを30円程で買い取ってくれた。日雇い日当が254円の頃で、30円は子どもには大金であった。
その頃、海岸の沖合1㎞程の岩礁に帝国海軍のイ号潜水艦が赤錆びて座礁していた。そこに朝鮮特需が起きて、子どもも大人も潜水艦に砂糖にたかる蟻のように群がって、あっという間に、潜水艦は剥ぎ取られ消えてしまった。
当時、中学生だった兄も、群がった一人である。
兄は潜水艦まで泳いで行って、時折、錆びだらけのミカンの缶詰等を持って帰っていた。しかし、私はそれを食べた記憶はない。当時は甘いものは貴重品で、兄はこっそり一人で食べていたのだと思う。古民家で休んでいると、色々な記憶が蘇る。
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