独り、もの思う秋。2005年9月27日
朝から冷涼。今日は母の通所リハビリの日。送迎車を待つ為、早めに車椅子を押して下の川辺の遊歩道へ出た。河川敷の草むらではスズメ達が餌探ししていた。やがて来る冬へ備えているのだろう。
母を送り出してから仕事に取りかかった。ボートショーのポスターの締め切り間近か。先日の17号台風の時風に乗って飛び込んできた痩せた蠅が元気に飛び回っている。窓を開け、部屋の電灯やテレビを消したが外へ出てくれない。外の涼しさが嫌なのかもしれない。
薄暗い部屋でテレビが消えると色々なことを考えてしまう。
涼しくなってから母は元気になった。いつまでも生きているような錯覚を起こすくらいだ。しかし、92歳の現実に先の事は考えにくい。老いた者から順々に逝くのは自然の摂理である。
静かな部屋に一人いると、これからの母への対応のことが重く頭を占め疲れる。ふいに、母が元気だった頃のことが次々と脳裏を去来した。台所に立ち何か料理を作っている母。散歩の途中見かけた、買い物をしている母の後ろ姿。編み物をしている母。今思うと、何もかも平穏な時代だった。
先日、NHKスペシャルで「孤独死」を見た。・・・NHK番組解説からの引用・・・千葉県松戸市にある常盤平団地。3年前、その一室で死後3か月経った男性の遺体が見つかった。男性は当時50歳。病気で職を失ったあと家族と別居し、一人で暮らしていた。今、全国各地の団地では、誰にも看取られずに亡くなる"孤独死"が相次いでいる。常盤平団地でもこの3年間で21人が孤独死した。その半数が40代、50代そして60代前半までの男性だった。社会や家族とのつながりを失った人たちが、老後を迎える前に、亡くなっているのだ・・・
重いテーマである。しかし、人は誰でも一人で死ぬものである。孤独死を不幸とは思うのは不遜だと私は思っている。大切なのは、死んでいく人の心のありかただ。人生を立派に生きて逝ったのなら、どのような死も不幸とは言えない。番組を見ながら、孤独死の瞬間に、家族に包まれ幸せだった頃の記憶が去来したのかもしれない、と私は思った。悲惨なのは、生活の場に死体が長期間放置されたことで、孤独死ではない。
最近は5時過ぎに日が暮れるようになった。秋は物思いに駆り立て、日頃考えないことを考えてしまう。、冷房のない我が家では、長い夏の間、私の脳は思考停止していたようだ。
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