母の久留米の思い出 2005年6月26日
散歩中、母は小学生の頃の思い出をよく話す。私もそうだが、年を取って、思い出すのは小学校時代の事が多い。
先日、母は思い出したことがあり、久留米の母校、荘島小学校へ葉書を書いた。内容は校歌についてのことで、すぐに、小学校からの丁寧な手紙と小学校紹介のパフレットが送られてきた。
荘島小学校卒業者には画家の青木繁とブリジストン創業者の石橋正二郎がいる。青木繁の家は母の住まいからさほど遠くない同じ荘島町にあった。石橋家は裕福な足袋屋さんで、娘が母と同級で、母はよく遊びに行っていた。
石橋家には久留米で最初に購入されたラジオがあった。当時、ラジオは立派な一軒家が買えるくらいの値段がしていたが、母の記憶ではピーピー言っているだけで何を話しているのかよく分からなかったそうだ。多分、鉱石ラジオより少しましな代物だったのだろう。
母が遊びに行っていた80数年前は第一次世界大戦直後で、石橋家には中国の青島で捕虜になったドイツ人が使われていた。と言っても庭掃除等の軽作業だ。当時日本は戦争捕虜を国際法に従い、極めて丁寧に扱っていた。ドイツ人捕虜たちは自由に暮らし、中には日本人女性と恋愛する者もいた。
石橋家の捕虜の中にタイア作りの技術者がいた。彼は石橋家の主力商品の足袋を見て、ゴム底を付けることを考えついた。それが地下足袋として売り出され、大ヒットしブリジストンの発展の基になった。その後、ドイツ人技術者はブリジストンで大変厚遇された。と、母は話していたが、真偽は分からない。
久留米は石橋家の足袋と綿織物で栄えていた。久留米絣はその地場産業の中で生まれた。添付写真の母が着用している絞り藍染めも久留米の産で、祖母の形見である。100年前のものだが、更に100年使えそうなくらい極めて堅牢にできている。
最近、母が荘島小学校のことをよく話すので、今の様子を見せようと小学校のHPを開いてみた。しかし、構内風景や見取り図等、どこをクリックしても開かない。校舎の画像もロックがかかっていて取り出せなかった。どうやら、昨今繰り返される小学校での悲惨な事件を考慮して、子供の顔や、構内風景を外部に漏らさないように、セキュリティがかけられたようだ。近年、HPを利用した校内活動が盛んになったのに、この様子では一気に衰退しかねない。残念なことだ。
写真は先週、赤羽自然観察公園で撮った。
母は8月で92歳になる。
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