幸せになりきるのも、不幸になりきるのも難しい。2006年1月7日
最近思うこと。
幸せになりきるのは難しいが、同様に不幸になりきるのも難しい。
幸せになりかけると、足を引っ張るものが現われて、なかなか上昇できない。不幸へ墜ちいく時は、人が助けてくれたり、美しい自然に見とれて、厭なことを忘れてしまい、墜ちきることは難しい。なかなか、世の中は上手く出来ているものだ。
お昼に七草粥を食べた。それから、お屠蘇のセットを陰干しした。松飾りは明日朝取り外す。同じことをつい数日前にやったような気がする。しかしそれは、1年前のことである。月日は放たれた矢のように過ぎてしまった。
大昔、平均寿命が30歳前後の頃は、さぞや人生ははかないものだっただろう。正月、源氏物語の映画化「千年の恋」を見たが、全編に漂う虚無感はそのはかなさによるものだったのだろう。
だが、昔の人と現代人の死生観は大きく違う。現世は前世、現世、来世と続く長大な輪廻のごく一部であって、我々が思う程の虚しさはなかったようだ。
以前「父は空母は大地」を描いた時、事前にインデアン関連の文献を読みあさった。それで知ったことは、インディアンにとっての死は、隣の土地へ行くぐらいのことで、殆ど恐れる対象ではなかったようだ。
その点、死生観を捨て去った現代人は不幸である。現代人にとっては現世が総てで、その短くはかない人生の中で右往左往しながら一瞬に終えてしまう。平均寿命が3倍近くに伸びても、現代人は、昔の人以上に寂しく孤独なのである。
今、傍らのテレビで「日本のガン医療を問う」をオンエア中である。身につまされる問題で、声だけ聞いている。聞きながら、暴論覚悟で言えば、仮にガンが克服されたとしても、人は幸せになれない。幸せの定義は難しく、長命即幸せではない。
野生動物達は素晴らしい。今日もスズメ達は楽しそうにさえずり、餌を美味しそうについばんでいた。彼らは生き生きと生き、敢然と死んで行く。自然と密接に生活していたインディアンたちは、自然を畏敬し、生死の意味をそのような自然の中から学んだのだろう。
彼らはよく「勇者」を語る。勇者は戦い続け、最後に戦って死ぬ理想の人である。それは野生動物の生き方に酷似している。
正月に見た映画の「レジェンド・オブ・ホール」のブラッド・ピットも、家庭に安住せず最後は灰色グマと戦って死んだ。現代人である私から見ると、勇者は乱暴で破天荒な生き方であるが、何故か、眩しいほど羨ましい。多分それは、自然な生き方だからだかもしれない。
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