男子厨房に入るべからず。2006年2月27日
母に人形を作ってくれたのは養父の健太郎さんである。絵心があり手芸好きの養父の傍らで、母は自然に手芸の感覚を身につけたようだ。養父は紙縒り細工も得意で、タバコ入れからご飯のお櫃まで精緻に編み上げ漆仕上げして使っていた。だが養父の写真を見ると、任侠映画の若頭と言った精悍な風貌で、とても彼が手芸をしている姿は思い浮かばない。
その夫に反し、母の養母である祖母は料理裁縫一切出来ない人だった。それは幼くして母親をなくしたことからきている。その母親は有馬藩士の娘で女の鏡と言われる程きちんとした人だった。しかし、祖母が小学校へ上がる前に母親は病に伏してしまった。死期を悟ったその人は学校で使う学用品から裁縫道具、衣服まできちんと揃えて亡くなった。だが祖母は母親の遺志を解さず、好き放題に育ってしまった。祖母は気が強く悔やむ事などない人だった。だが一度だけ、母親がもう少し長生きしてくれたら違う人生を歩めたのに、と私に漏らした事があった。祖母は内心、野方図に育った自分を悔いていたようだ。
父親の甚平さんは妻の死後、後添いを貰った。しかし、その人が祖母を継子いじめしていることを知りすぐに離縁してしまった。それ以降、妻帯はしていない。それで祖母は男手一つでいい加減に育ってしまった。
母が料理を学んだのは甚平さんからである。写真の甚平さんは見るからに屈強である。母の話では86歳で死ぬまで一度も医者にかからず、歯は全部欠損無くそろっていて、死の寸前まで堅い食べ物を好んで食べていた。若い頃の西南の役では西郷軍に従って鹿児島の城山までついて行った程に血の気は多かった。だが母の思い出の中では、料理好きの優しい好々爺の姿ばかりである。
甚平さんは川漁が好きで、母をよく筑後川へ連れて行っては、川エビや泥鰌をとって料理してくれた。母は小さい頃に甚平さんから魚のさばき方を教わった。以前、母は小さなヌルヌルした泥鰌を実に器用にさばいて柳川鍋を作ってくれていた。
私が子供の頃、料理をしたり裁縫をしたりしていても、母は嬉しそうに眺めているだけで、「男子厨房に入るべからず」などと叱る事はなかった。今思うと、そのような環境に育ったからのようだ。
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