ニッケ紙は食紅で色づけしたニッケ入り砂糖を紙に塗ったもの。2006年6月14日
初夏の木の実は少なくなった。残っている桑の実は酸っぱいものばかり。木いちごは出来が良かったが、野いちごは不作で小粒で酸っぱい。ヤマモモやイヌビワが熟すのは来月末辺り。サクランボだけはまだ沢山残っている。
今日も散歩帰り、緑道公園の桜の枝を引き寄せて濃紫のサクランボを10粒程食べた。ほんのりとした苦みと甘みが調和して美味しい。食べ終えて、車椅子の母へ真っ赤に染まった口を見せると「人を食ったみたいで、気色が悪い。」と顔をしかめた。
そして「マーはニッケ紙が好きだったね」と私の子供の頃のことを話した。
子供の頃、ニッケ紙と言う駄菓子があった。鮮やかな食紅で色づけしたニッケ入り砂糖を紙に塗ったものだ。子供達はこのニッケ紙をちぎってはガムのように噛んで、味わい終えた紙の繊維を吐き捨てた。だから、当時は道のあちこちに紙繊維の塊が落ちていた。この食紅は粗悪で今なら絶対に許可にならない品だ。食べ終えても口の中が真っ赤に染まり、長時間消えなかった。
写真は歯垢チェック用の食紅で安全なもの。ニッケ紙もこんな具合に、赤、青、黄、緑、と極彩色に染まった。
母が子供時代のことを話すと、その頃の気持ちが蘇る。不思議な事だが、親が生きている限り、子は親に対して子供の感覚が抜けないものだ。
先日のNHKの日曜美術館で坂本繁二郎を取り上げていた。彼は青木繁と同じ久留米の荘島町で育った。母も同じ町内で育つているので、彼らは母の荘島小学校の先輩にあたる。
坂本繁二郎は神童と呼ばれた程、絵は上手かったが、東京美術学校へ入った幼馴染みの青木繁の画業に刺激を受けてパリに遊学した。しかし、パリで得るものは少なく、昭和6年、帰国して久留米の隣八女に画室を建て、終生過ごした。
八女は最近、ホリエモンの出身地で有名になった。蛇足だが、八女の一隅に星野町、黒木町がある。母はその地の黒木、星野氏の出である。黒木町出身の女優には黒木瞳がいる。
坂本繁二郎に興味を持ったのは、絵が好きだった母の弟が八女の坂本繁二郎のアトリエをしばしば訪ねていたからである。だが、その叔父は若くしてビルマインパールで戦死した。
帰り道、坂本繁二郎の話をすると、母は弟が生きていたら、絵描きを目指したのにと話した。母は朝の連ドラ「純情きらり」見ている。登場人物は母に近い世代で、その中の若い絵描きが弟に重なるようだ。あの戦争の時代は、若者が明日を描けない時代であった。
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