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2007年3月28日 (水)

畳屋は自転車に道具一式を積んで来た。2006年8月16日

夕暮れ、母はベットの傍らで寝る準備をしていた。ゆっくりと動く母を見ながら、老いたなと思った。最近、母は一段と足元が弱ってしまい、去年、自然公園で撮った動画を見ると、しっかりしているのに驚く。
老いの進行に伴い、母を世話をすることも増えた。落ちたタオルを拾ったり、冷蔵庫から緑内障の目薬を持って行ったりしただけだが、「ありがとう」と母は礼を言う。祖母も晩年、そのようによく礼を言っていた。それを思うと、「ありがとう」に複雑な思いがする。

先日、ラオスの家族風景を見た。現地の遺跡修復のため住み着いた日本人男性と現地妻との家族である。元気でのんびりした男の子。一族が集まってのにぎやかな食事。私も子供の頃は、毎日そのような光景を繰り返していた。その光景は今と比べると貧しく、明かりも暗い。それなのに、とても心は温かかった。それは裸電球の温もりと家族が身を寄せ合う心の温かさだったようだ。

「笑っていいとも」でタモリが畳の畳の張り替えは面白いと話していた。私も同感で、彼も私も畳の張り替えの工程を詳細に知っている世代である。

昔の畳職人さんはその家へ出向いて庭や玄関前の道路で台を組み立て、畳の張り替えをした。仕事が始まると近所の子供たちが集まり、日長見物した。太く長い畳針、大きなマチ針のような真鍮の頭付き鉄杭、丸い真鍮の肘当て、どれもピカピカ光っていて、子供達には魅力があった。
畳の縁を縫い付ける正確な手技。大きな包丁ではみ出た床藁をザクザクと断ち落とす小気味良さ。口に含んだ水を吹きかけて仕上げる時の満足気な職人さんの顔。それらを思い出していると、ふいに40年近く昔、知り合いからアパートの管理を頼まれていた頃を思い出した。

アパートの不動産屋は赤羽駅前の狭い路地にあった。小さな不動産屋で、扱っている物件は木賃アパートばかりだった。主人のFさんは70代半ばの長身のお爺さんで、面白い人だった。お客が来ると、彼はホンダカブの荷台に載せて猛スピードで物件まで連れて行った。普通に歩くのも危なっかしい人なので、いつもハラハラ見ていたが、運良く事故は起こさなかった。

Fさんは字が書けず、私が契約書を代行して書くことがあった。本人は目が悪いからと弁解していたが、本当に書けなかったようだ。不動産の資格も同業者から借りていた。Fさんのことを知っている人は「Fは戦時中、静岡の工場に徴用で連れてこられた朝鮮人だから」と陰で馬鹿にしていた。

私の管理していてたアパートには出入りの畳屋がいて、空き室がでると張り替えを頼んでいた。ある日、Fさんは知り合いの畳屋を連れて来て空き室の張り替えをやらせてくれと頼んで帰った。
その頃は畳の張り替えは作業場に持ち帰り機械で仕上げるのが普通になっていた。だが、その畳屋は自転車に道具一式を積んで来て、アパート裏の木陰で昔風の手作業を始めた。彼は店を持たず細々と仕事をしている様子だった。無口な人で、言葉を交わした記憶はない。細身の理知的な風貌が職人らしくなく、強く印象に残っている。仕事は丁寧で工賃は2割程安かったが、出入りの畳屋との付き合いがあり、次に頼むことはなかった。

後年、あの畳屋もFさんと同じ半島出身の人では、とふと思った。その人の年齢は母と同じくらいで、どのような人生を送って来たのか、時折気になった。

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