運の良し悪しの判断は難しい。2007年4月14日
散歩帰り、車椅子を押しながら運の善し悪しについて考えた。世の中には運の良い人悪い人様々いるが、本当はどちらの人もいないのではと思った。
一見運の悪い出来事が、後になって、本当は運が良かったりする。私が絵描きになったのも、複雑に運が絡み合った結果だ。
小さな頃から絵を描くのが好きだった。しかし、中学に入ってから突然、絵をあまり描かなくなった。理由は無能な美術教師の対応にある。ある日、宿題で描いた絵を提出すると、大人に描いてもらった絵だろうと教師は決めつけた。我が家では私が一番絵が上手く、手伝ってもらえる訳がない、と猛然と反論したが聞こうとしない。それ以来、私の絵の点数は低くなり、意欲をなくした私は美術の時間は空想した船や飛行機の絵を描いて過ごすようになった。
今も、その美術教師を思い出すことがある。その気の弱い口べたの青白い青年教師は、中学生の見下した態度に反論もできず、評価点を下げるような陰湿な行動に走ったのだろう。
中学から進学校に進学してから、私は理科系の技術者を目指していた。
しかし、高校1年が始まってすぐの美術の時間、提出した課題の植物の絵を美術教師は絶賛した。その一瞬から、私の中に眠っていた絵心に火が点いてしまった。私は他の教科の勉強を一切放って、1日中絵を描いて過ごすようになった。
進学した当座、成績はトップグループにいたが、まったく勉強しないので、あっという間に落ちてしまった。しかし、絵描きになろうと決意した私は成績には無頓着で、受験勉強をしないまま、高校3年間は一瞬に過ぎてしまった。そして、何度も書いたように芸大受験に失敗した。
落ちた理由は第1次試験の国語社会英語がまるでダメだったからだ。当時の芸大受験の1次試験は英数国のみで理数はなかった。もし、1次試験に理数が加わっていたら結果は変わっていたかもしれない。勉強は一切しないと書いたが、理数は例外で、ゲーム感覚で代数や幾何の問題を解いたり、科学本を読み耽っていた。それで、理数の成績は常にトップにいた。
もし、高校の美術教師が私の絵を評価しなかったら、私は理系の技術者を目指して、コツコツ勉学を続け、日曜画家をしなから安定した一生を送っていたかもしれない。しかし、安定した普通の生活が良いのか、波乱が多いが好きな道が良いのか、私にも分からない。私の場合、どちらの生き方を選んでも後悔したと思っている。
芸大受験に失敗してから、浪人をしようかどうか迷っているうちに、熱中出来る彫金の仕事を見つけた。私は絵だけでなく職人仕事も好きだった。それで25年間、絵から遠ざかった。
その長い空白期間があったのに、43歳から突然に絵描きを目指せたのは高校三年間に培った基礎があったからだ。私は高校3年間に膨大な量の絵を描いた。多感な時期に何かに熱中することは、とても素晴らしい。それは成人してからの2,30年の努力を凌駕する価値がある。
絵描きに再挑戦してからも何度もターニングポイントは訪れた。最初は講談社から絵本の話が来た時だ。私は人の文に絵をつけるのが厭で、自分のストーリーを主張した。しかし、2年間の講談社とのやり取りの末、話は白紙になってしまった。
今思うと、私のストーリーは未熟でダメになるのは当然だった。しかし、編集とのやり取りで出版の勉強をする事ができ、得た知識はかけがえのないものになった。
もし、素直に講談社の要求に従って絵本を描いていたら、今頃は平凡だが安定した絵本作家になっていたかもしれない。しかし、私がホームページに掲載しているような作品も、後年発表した絵本「父は空母は大地」も生まれていない。これも、どちらが良いか判断は難しい。
その判断の難しさは芸大進学も同じである。
東京芸術大は今も大変な難関で、この肩書きは相当に大きい、実力主義の芸術で、肩書きがものを言うのは奇妙であるが、現実には一般コレクターに肩書きなしの評価を求めるのは難しい。
私が43歳で絵描きを目指した時、自分に課した事がある。それは、肩書き付き作家より3倍優れた作品を作ることだった。肩書き付きより少し優れているだけでは、世間は肩書き付きを評価する。3倍優れていて始めて私を評価してくれるのである。
その妥協しない努力が奏効し、いつの間にか評価してくれるコレクターが現われ、何とか食えるようになった。蛇足だが、国際的に活躍している日本人絵描きの多くが肩書きに無縁な者が多い。その理由は、力づくでコレクターが認める仕事をして来たからだと思う。だから、私が芸大に再挑戦した方が良かったか悪かったか、評価が分かれる。
その後も、続々とチャンスはやって来た。銀座の画廊からも企画展の話が次々と来たが、絵描きの取り分の割合でもめ、生意気な奴と判断されて次第に話は来なくなった。
銀座の一流画廊では、新人の取り分は売価の2,3割が相場である。それを暫く我慢して、少しずつ上げてもらうのが通例なのに、私はいきなり5割を要求した。別段、金にこだわっていたのではなく、絵描きはそう言う者だと決めつけている画廊の態度が気に食わなかったからだ。
他の大手出版社からも次々と絵本の話が来た。だが私が選んだのは、当時木賃アパートの1室が会社の弱小出版社のパロル舎だった。そしてパロル舎から出版した「父は空母は大地」はマスコミ各社から大きく取り上げられ、少しだけ名を知られるチャンスを得た。
運命は皮肉である。もし、大手からお母さん受けが良い甘っちょろい絵本を出していたら、一生マスコミから注目される事はなかったはずだ。
「父は空母は大地」はNHKで番組になり、私はFM東京の1時間番組で自然を語ったりした。絵描きとしての肩書きも、それで少し増えた。しかし、評判になると必ず反発がある。「父は空母は大地」の原典のシアトル首長からの手紙等存在しないから、絶版にしろとネット上で論陣をはる匿名の者がいた。その本の原典は幾人もの人から人へ伝承され、いくつものテキストが存在していると、本の後書きに明記してあるが、その自称ジャーナリスト氏はその本を読まないで論陣を張ったようだ。
その論争は去年の今頃、文の寮美千子氏と氏の間で激しく闘われていた。幸いにも、私はその争いは全く知らずに過ごしていた。今の私は、そのような生臭い世界は苦手で絶対に関わりたくない。その、原典論争の波紋もまた私の人生に影響するだろうが、その結果は私自身の努力で良くも悪くも変化できる。
かように、運の良し悪しの判断は難しく、何が正しいのか私は今も分からない。多分、死ぬまで分かることはないだろう。
4月15日
朝、母は足腰が痛いから、来週のペインクリニックを前倒しにして欲しいと言う。夜間、トイレに起きる時、足を上げるのが難しくなった所為のようだ。直ぐにベット足元の手摺を切って10cm低くした。数年前から、足が乗り越えやすいように少しずつ低くして来たので、これが限界の低さである。母はずいぶん楽になったと喜んでいた。これで今日の整形外科行きは不要になった。
届け物をしに、散歩の途中、大型犬の小次郎ちゃんの家を訪ねた。
門扉のドアホンを押したが、階段上の部屋から掃除機の音がするだけで反応はない。開け放った窓へ、大きな声で呼びかけていると、玄関脇から小次郎ちゃんが大きな体をヌーッと出して私たちを見下ろした。「おいで。」と呼んだが迷って降りて来ない。どうやらお母さんのKさんを気にしているようだ。「おいでってったら、どうしたの。」と何度も呼んでいると、私たちの声に気付いたKさんが出て来た
Kさんとの用事を済ませた後、気兼ねなく降りて来た小次郎ちゃんを撫でた。小次郎ちゃんは仰向けにゴロリと横になってお腹を撫でろと言う。撫でてあげると、彼は鼻が長い犬種なので咳き込んだ。
最近、厭な事が続くので、小次郎ちゃんを撫でていると気持ちが和んだ。
その後、自然公園へ向かった。暖かくて心地良い日である。自然公園では柳の綿毛が風に舞っていた。古民家の座敷に上がり寝転んで見上げると、暗い天井をバックに白い綿毛がフワフワと舞っていた。土間から、車椅子の母と誰かがお喋りしている声が聞こえた。こののどかさは平和でとても心地良い。
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