取り壊される赤羽台団地。07年5月16日
自然公園の田圃では、近くの小学生たちが田植えをしていた。泥田を目の前にして、始め躊躇してい都会っ子たちは、一旦、泥の中に入ってしまうと大騒ぎである。尻モチをつく者、身動きが取れなくなる者、泥を顔にあびる者、皆楽しそうに歓声を上げていた。
私は漁師町で育ったが、同級には農家の子もいて、田植えの手伝いをしたことがある。その時の冷たくて滑らかな泥の感触は心地良くて、とても懐かしい。
田圃の隣には池がある。今はヒナ連れのカルガモ夫婦がいて、見物客が絶えない。例年、野良猫とカラスで全滅していたカルガモのヒナは、9羽が維持されていた。この分なら、2,3羽は成鳥まで無事かもしれない。
「昨夜も無事に過ごしてくれて、良かった良かった。」とヒナを見学に来た老人達が安堵していた。カルガモも少しは危険を学習したのかもしれない。
帰りは駅前に抜けた。途中の赤羽台団地は立て替え中である。建物の半分は空き家になって、壊されるのを待っている。命の気配が消えた建物は無機質で寂しい。4階の赤錆びたベランダに鳩がとまっていて、傍らに巣が見えた。壊される前に子育てが終われば良いのだが。
赤羽台団地は、私が赤羽に引っ越して来た37年前は、瀟洒でちょっと高級な団地だった。住人もハイソでジャーナリストから大学教授まで住んでいた。子供も若者も多く、活気があって人通りは絶えなかった。
寂しい団地の道を行きながら「昔のことが夢みたいだね。」と、車椅子の母が昔の知人達の事を話した。工事用塀で閉鎖された地区の建物に、昔、親しくしていたお茶の水女子大の教授が住んでいた。彼女は、戦後、東大が女性に開放された時、最初に入学した女性3人の一人である。中国文化の権威で、中国から京劇が来日する都度、母は彼女に誘われて一緒に観に行っていた。私もしばしば住まいを訪ねていたが、帰りはいつも通りまで見送ってもらった。とても育ちの良い方で、しばらく歩いて振り返ると、彼女は遠くから丁寧に挨拶していた。
昔のことを思い出しながら、彼女の住まいあたりを眺めると、塀の上に大きく豊かに成長した木々が見えた。時代は変化しても、若々しい活気が維持されているのなら虚しさは小さい。しかし、今の時代の変化は寂しくなる一方である。
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