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2007年6月16日 (土)

何でも屋のグミの実。07年6月16日

自然公園の古民家で一休みして、外へ出ると日射しが眩しかった。
広場の一角の畑ではキュウリやトマトが小さな実をつけている。車椅子を近づけて見せると、母は可愛いと喜んでいた。
気温30度を越しているが湿度が低くて暑さは感じない。今日の暑さは、45年前に九州から上京した頃の東京の夏に似ている。違うのは、当時は今の中国のように大気汚染が酷くて息苦しかったことだ。当時の東京の夏は、暑いのは昼間だけで、日が陰ると急速に涼しくなった。秋の訪れも早く、8月半ばを過ぎると驚く程に秋めいていた。

帰り道、公園の遊歩道脇のグミが実をつけていた。落ちていたルビーのように美しいグミを母に見せると、母は郷里大堂津の小学校脇の何でも屋のことを話し始めた。
何でも屋は文房具に雑貨から佃煮類まで扱っていた。何でも屋の裏の畑には大きなグミの木があり、5円払うと、小さな紙袋一杯のグミを売ってくれた。と言っても店主の老夫婦はグミの木に登れないので、子供たちが自分で登って摘むのである。だから、グミは紙袋に入れる前に子供たちのお腹に入り、紙袋はなかなか一杯にならなかった。老夫婦が丹誠込めて育てたグミは甘くてとても美味しかった。郷里の海岸に野生のグミは沢山あったが、どれも渋くて酸っぱくて、何でも屋のグミの木には到底かなわなかった。

何でも屋では弁当のおかずも買った。家からは日の丸弁当を持参して、佃煮等を店で買って弁当に詰めた。私は五色豆入りのスルメの佃煮が好物だった。五色豆は大豆を赤や緑に染めて水飴で半透明になるまで煮込んだものだ。スルメはカンナで削り同じく水飴で甘辛く煮込んであった。漁師町で魚料理に飽きていたので、当時、佃煮類は御馳走であった。今の食べ物の感覚とは、まったく逆である。
おかずは飫肥天にすることも多かった。早朝、飫肥天の工場へ行き、揚げたてで熱で膨らんでいるのを弁当に入れてもらった。しかし、飫肥天は冷めると小さくなって、いつもがっかりしていた。

何でも屋の老夫婦には子供がなく、下の姉は入り浸って可愛がられていた。
「あの子は、何でも屋の子供にならないか、とよく言われていたよ。」と母は笑いながら話した。姉は老夫婦に夕飯を御馳走になったりしていたが、私は老夫婦と話したり家に上がったりした記憶はまったく無い。

散歩から帰るとすぐに、その姉が訪ねて来た。姉はいつものように、勤めている新橋の店が繁盛している事、自分がお客に気に入られていることを自慢して帰った。子供の頃から今に至るまで、姉は人あしらいが上手いようだ。

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