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2007年7月10日 (火)

老いを否定する姿勢に老醜を感じる。07年7月10日

3月頃から、自然公園内を走っている小太りの熟年がいる。多分、メタボリックが心配になって、意を決して走り始めたのだろう。足取りに軽やかさはなく、大汗をかいて息づかいは荒い。彼と出会うと、「夏の暑さで挫折するだろうね。」と、私は母に言う。今日も彼は走っていたが、小雨が降って涼しい所為か、いつもの3倍は園内をグルグル走り続けていた。

自然公園で、そのような熟年を数限りなく見て来た。そして、その全員が夏の暑さに挫折し、二度と現われなかった。彼らは若い頃の記憶のままに、無理をすれば体力は増強されると信じているようだ。似たことを繰り返して来た私には、彼らの心の動きが手に取るように分かる。
走るより、脂肪燃焼の効率は早足歩行の方が遥かに良い。まず、食生活を変え、穏やかな散歩から始めて体重を10キロ落し、それから走り始めれば挫折する事はないのだが、生き急ぐのは熟年の習性のようだ。
老いや境遇に合わせて意識を変えられれば穏やかに生きられるのだが、私自身もその難しさを実感している。

かって東洋には老いの美学があり、老いは尊敬の対象であった。
それは、西欧の老人を弱者として捉え庇護しなければならない、とする精神とはかなり違う。老人は君主のような存在で、若者は無条件に敬意を払っていた。例えば江戸時代には、百歳以上の老人はどのような犯罪も罰せられなかった。しかし同時に、老人は自らを厳しく律する老人学が課せられていたので、礼儀正しく律儀で間違った事など稀であった。
南九州の小さな漁師町での子供時代、私の周りにも、無学だが誠実で優しく思慮深い老人が沢山いた。老醜という言葉があるが、そのような老人は殆ど記憶に残っていない。

老醜は外見を言うのではなく、自分の老いを否定する姿勢だと考えている。
元気さを誇り、他人へのいたわりを忘れるのも老醜の一つである。老いは生の自然な形態で、どんなに長命の人でも老いと死からは逃れられない。誇張もせず軽視もせず、等身大に老いを受け入れている老人に会うと清々しさを感じる。昔はそのような老人が、何処にでも普通にいた。

老人学と言うには世俗的だが、「老いては子に従え」「年寄りの冷や水」は、味わい深い言葉だ。母は「年寄りの冷や水」はしないが、私の言う事はあまり聞かない。そんな時、「老いては子に従え」と言うと、何となく納得してくれて便利である。

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