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2007年7月12日 (木)

続、ホウセンカで爪を染める。07年7月12日

毎夜、床に就くと生活の先行きの悩みが去来する。もし、朝から憂鬱なら病的だが、朝は爽やかなので、大した悩みではない。
昨夜の夢に、去年1月に急死した家庭医の黒須さんが出て来た。黒須さんは13階のベランダから訪ねて来て「お母様はいかがですか。」と聞いた。夢の中では、母は姉が病院へ連れて行っていて留守である。「最近、母は咳が増えまして、肝臓から転移したのでは、と心配です。」と言うと、「それは、とても心配ですね。」と黒須さんは暗い顔になった。やっぱり、母の病状は深刻ななのかな、と私も暗くなった。夢はそこで唐突に終わった。目覚めてからも、母の咳が増えているのを内心気にしているのだと思った。
今朝の散歩中、「夢で、黒須さんがベランダから訪ねて来た。」と母に話すと、「私は一度も見ていない。魂が、飛んで来たんだね。」と母は懐かしがっていた。

母がホウセンカでの着色の仕方を隣家のYさんに教えていた。
それで、先日散歩帰りに花弁を集めて明礬と一緒にYさんに渡した。Yさんは直ぐに足の爪全部に実行した。ホウセンカは着色力が強く爪だけでなく皮膚も濃オレンジに染めてしまう。Yさんは皮膚部分をマスキングして、爪に明礬でねった花弁を貼付け、翌日、仕上がりを見せてくれた。足の爪は全部、とても美しい色に染まっていた。市販のマニュキュアにはない品の良いオレンジ色で、一般に方法が知られたら流行るかもしれない。

母が言うには、この色は強靭で爪が伸びきるまで残るようだ。
ホウセンカの花色は色々試したが、薄いピンクの花弁でも同じように濃オレンジに染まる。目に見える色素が染まるのではなく、見えない成分が明礬の力で発色して染め上げるようだ。
昔は朝顔の葉等で指先を包んで、ねった花弁が乾かないようにしていた。今はラップがあるので、しっかり保湿が出来て楽である。

ところで、母にホウセンカの遊びを教えた曾祖父の甚平さんだが、母の話では、とても思慮深い躾けをしてくれたようだ。
母は毎日、甚平さんからもお小遣いを貰っていた。母が貰いに行くと、いつも甚平さんは財布ごと渡し、好きなだけ取らせた。そうされると、母は却って困ってしまった。母は子供なりに考えて、甚平さんを困らせない程度に取り出して持って行った。しかし時折、1円銀貨を取って、「10銭とっといた。」と嘘をつくこともあった。そんな時母は、罪悪感に苛まれて遊んでいても楽しくなく、罪滅ぼしに酒好きの甚平さんへお酒を土産に買って帰った。すると、甚平さんはそうそうかとただ喜んでいた。しかし、甚平さんは子供心を総て分かっていたようだ。そうすることで、結果的に母は思いやりや節度を学んでいた。
「あんまり信頼されると、却って悪いことは出来ないものね。」と、母は折りに触れてそのことを話す。それは単なる放任ではない、思慮深くて勇気のいる躾けであった。

祖母の千代は早くに母親を亡くした。
その頃、千代はまぶたが下がる神経の病に罹り、眼科に通っていた。当時の医者の払いは月末か年末のまとめ払いである。ある日甚平さんが治療費を聞くので、高いらしいと答えると、甚平さんは30円を渡した。明治期の30円は当時の東京大阪国鉄運賃の約10倍である。千代は大金を手にして、眼科ではなく駄菓子屋へ飛んで行って店全部を買い占めてしまった。買った品は大きな長持ちにしまい、長い間近所の子供たちに配って女を上げていたようだ。
祖母は眼科にそれっきり通院せず、治療は中途半端に終わってしまった。後年祖母は、自分の目が細いのはちゃんと眼科に通院しなかったからで、本当は大きなぱっちりした目だった、と話していた。

どうやら、祖母千代への甚平さんの教育は母程には巧く行かなかったようだ。
私の記憶する祖母は根っからの善人だが、破天荒な不良老年でもあった。私が絵描きになれたのは、その、いつも世間や常識に逆らう破天荒な性格を少し受け継いでいるからである。

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