檜枝岐の墓。07年8月18日
今朝方、風の冷たさに目覚めて窓を閉めた。珍しく予報通り、北の冷気が南下して来たようだ。近年、東京が北国に近い事を忘れていたが、こんな時に再認識する。
上京した45年前は、東京の夏は8月半ばを過ぎると、暑さは薄れ朝晩は涼しかった。それがいつの間にか、郷里の九州より暑くなってしまった。
先程、台所で食器を洗っていたが、汲み置きの水は冷たく、蛇口の水は生温かった。この感覚は夏の終わりの風物詩である。
朝8時に散歩に出た。
会う人ごとに「涼しくて良いですね。」と挨拶を交わした。母も心無しか生気を取り戻し快活に見えた。
緑道公園から旧居跡に建つ家が見える。母はその家は父と祖母のお墓だからと手を合わせていた。今の住人は、父と祖母が旧居で息を引き取ったことを知らない。まして、母がお墓代わりに拝んでいることを知ったら、気を悪くすることだろう。
しかし、狭い日本で誰も死んでいない場所を見つけるのは難しい。まして、大災害を繰り返して来た東京や、長い歴史のある京都等では、狭い地域で膨大な数の人が亡くなっている。
そんな話を母としているうちに、檜枝岐のお墓の事を思い出した。
檜枝岐のお墓は、それぞれの家の玄関脇にある。墓石の周りには溢れるように花が植えられ、死者たちと残された家族たちが仲良く暮らしている。
縄文時代は住まいの地面を深く掘って死者を埋葬した。死者と生活を共にする古代の風習は、そのような僻地に受け継がれているようだ。
檜枝岐には母を一度連れて行ったことがある。
季節は初秋で、家々の玄関脇のお墓の周りには、コスモス、ワレモコウ、ケイトウ等の秋の花が鮮やかに咲いていた。帰りのバスを待つ間、客のいない静かな店に入り、甘く味付けしたエゴマをかけた蕎麦餅を母と食べたことが懐かしい。
お墓のことを話していると、母は戦時中の話を始めた。
父は九州日田山中の女畑で、食料増産のための灌漑事業を建設省の技官として指揮していた。その工事現場にお虎御前と呼ばれた墓があった。地元では触ると祟ると言われた墓で、誰も近づこうともしない。父は「祟るなら俺に祟れ。」と、墓を掘り返し移転させた。墓の主は伝承とは違い6尺豊かな男性で、女性のお虎御前ではなかった。
戦後直ぐに父は役所を退職し、工事は引き継いだ者によつて完成した。
その後、事業を始めた父は、やることなすこと失敗続きで、一度も浮上しなかった。やはり、お虎御前に祟られていたのかもしれない。
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