昭和38年東京。07年11月4日
「オールウエイズ三丁目の夕日」はレンタルで既に見ていたが、金曜夜の放映はついつい見入ってしまった。出だしは昭和34年東京下町の俯瞰。小さな八百屋、雑貨屋に駄菓子屋。大勢の通行人の間を走り回る子供たち。その買い物客のかっぽう着姿に母の姿が重なった。昭和34年当時、私は中学生。登場した自動車修理工見習いの女の子より一つ年下で、登場する大人達は母より少し下の世代だ。この映画は見る人それぞれに、心動かされるシーンは違う。私はドラマより、当時の街の情景がただただ懐かしかった。
私が九州宮崎市から上京したのはそれから4年後の38年。
どうしても特急に乗りたくて、大分始発の特急みずほの寝台車の切符を手に入れた。夜の大分駅で乗り換えた寝台車は始めての経験だった。最上段のベットは寝心地が悪く、一睡も出来ないまま通路からずーっと夜の風景を眺めていた。山陽線を半ば程過ぎた辺りで夜が明け、瀬戸内海が見えた。東海道線に入ると建設中の新幹線の路線が見えた。同じボックスの中年夫婦との雑談の中で、芸大受験に上京すると話すと、「偉くなって下さい。」と励まされた。
東京駅には、上の姉が迎えに来ていた。最初に驚いたのは山手線の派手な黄色の車体だ。それから、汚い空気、短い間隔で発着する電車、すぐに閉まる自動ドア、池袋駅の中央コンコースに溢れる人並みと、次々に驚かされた。
芸大受験まで間があったので、区分地図を買って毎日都心の名所へ遊びに行った。東京に慣れるのは早く、受験の頃には、東京のどこへでも一人で出かけられた。
受験の結果は何度も書いたように失敗だったがショックはなく、その後も毎日遊びに出かけた。その頃愛用していた紺色の表紙の区分地図はボロホロになって手元にあり、ページを開くと出かけた名所が赤丸で囲ってある。
最初に行ったのは東京タワーで、そこで同じ頃上京していたK君と偶然に会った。当時、東京タワーは東京一の名所で、上京したての田舎者は必ず訪れていた。もしそこで1日を過ごすことがあったら、必ず2,3人の知り合いに会えたはずだ。だから、K君と会ったのはそれ程偶然ではなかったかもしれない。今、彼は歯科医になり、ジェットコースターのような波瀾万丈の人生を送っている。
それから10年後、赤羽で母と父と祖母との生活を始めた。同居の理由は、父が次々と事業に失敗し借金を重ねたことと、弱った祖母の世話をする為だ。大変な時代の幕開けであったが、今振り返ると、奇妙に活気のある生活だった。
当時の仕事の彫金は手間が大変良く、月に10日働けば平均以上の生活ができた。その頃利用していた三菱銀行の赤羽台支店は、団地建て替えにより周りの建物と共に取り壊され、今は広い空き地になっている。
今日の自然公園の帰り、その赤羽台団地を抜けた。取り壊された跡地を眺めながら「三菱銀行の支店は明るくて気持ちよかったね。」と母が話した。私も静かな店内で、のんびり順番を待っていた頃を懐かしく思い出す。そんな気持ちになるのは、豊かな時代だったからかもしれない。
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