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2008年1月15日 (火)

母への、90年近く続いた幽霊橋の祟りは薄れてきた。08年1月15日

朝、散歩前に思いついた本のアイデアを、忘れないうちにパソコンに入力しておいた。
いつもより30分遅れで母を呼びに行くと、椅子に座ったまま居眠りしている。「出かけるよ。」と、何度か声をかけると母はやっと目を覚まし、寝ぼけ顔で「幽霊橋の夢を見ていた。」と笑った。

幽霊橋とは久留米の心霊スポットの一つで、母の育った久留米市荘島町の一角にある。荘島町は夭折の画家青木繁の生家があるので名が知られている。
幽霊橋と言っても橋ではなく、路傍の土に埋まった何の変哲も無い30センチ程の石のことである。その直ぐ先の荘島小学校は有馬藩の刑場跡で、刑場へ架かっていた橋の辺りにその石があった。今はその橋も小川もなく、幽霊橋と呼ばれた石もない。刑場へ架けられた橋には幽霊の噂が絶えずそのような名がついたと推測される。

大正中期、子供たちは幽霊橋は祟るからと避けて通り、絶対に踏んづけたりはしなかった。しかし、活発な母は違っていた。「ゆうれいばし、ふんづけた。」と、毎日踏んづけて荘島小学校に通っていた。
「皆は、恐ろしそうに見ていたけど、ちっとも怖くなかった。」
母は今でも楽しそうに話す。しかし、母のその後の苦労を見ると、幽霊橋に祟られていたように思えてならない。

最初は、頼まれればすぐに保証人の判子を押してしまう祖母の為に、18歳で、大勢の借金取りの矢面に立たされた。それから何度かの結婚の失敗の後、父と一緒になり、更に長い苦労が始まった。
父は建設省末端の技官で、当初の生活は安定していた。しかし、上司と喧嘩して、恩給が付く3ヶ月前に辞職してしまった。「俺は金なんかに目もくれず、信念を通して辞めてやった。」と、父は常々自慢していたが、母も私たちも父の自分勝手さを内心悔やんでいた。
父には一級土木技師の資格が有り、何処へでも再就職できた。もし、山っ気さえ起こさなければ、つてのあった鹿島建設辺りで程々に出世し、その遺族年金で母は楽な老後を送っていただろう。

何度も書いたように、父は人の甘言に乗せられやすく、我慢出来ない性格だった。会社を興しては破綻して借金の山を作り、母は家族の為に働き続けた。今、私が母の世話を続けていられるのは、苦労を見て育ったからだ。もし、母が安定した普通の主婦業を続けていたら、私は割り切って老いた母を施設に預けていただろう。子供はそのようなバランス感覚を備えているものだ。

90年近く続いた幽霊橋の祟りだが、肝臓ガン手術を最期に薄れてきたように感じる。祟っていた霊も長年の間に円くなり、もういいだろうと許してくれたのかもしれない。おかげで、術後2年で終わると思っていた命の炎は今も細々と消えず、今年夏の95歳の誕生日は何とか迎えられそうだ。
ところで、母が見ていた夢だが、内容は聞き逃してしまった。楽しそうに「幽霊橋の夢を見ていた」と言ったところをみると、子供の頃の楽しい思い出だったのかもしれない。

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