昭和23年、雪の舞う中の寂しい葬列。08年2月6日
雪が舞う中、散歩へ出た。先日の重い雪と違い、今日は軽やかに鈍色の街に舞っていた。この雪は昭和23年11月末の九州日田市の薄暗い街を思い出させる。当時私は3歳。日田市で父方の祖母が急死し、母と私たちは葬儀の為に日南市大堂津から来ていた。祖母は博多に住まいがあったが焼けだされ、疎開先の日田市に留まっていた。祖母が日田を疎開先に選んだのは、敗戦の昭和20年まで、国策事業の灌漑用水路建設のため父が日田市山中の女畑に赴任していたからだ。灌漑工事は敗戦後も続いたが、父は上司と喧嘩をして役所を辞め、福岡で仕事を始めていた。そして、母と私たちは食料事情が良い大堂津で暮らしていた。
祖母の位牌を見ると享年79歳とある。父方は長生きの家系で、位牌の祖先達の享年は皆80代半ばだ。祖母が彼らより早く逝ったのは、夜中、階段を踏み外して転落したからだ。人一倍足腰の丈夫な人で、階段から落ちなければ長生きしたはずと、母は話す。もし、祖母が長生きしていたら、母と折り合いが悪い姑なので、母を長く悩ませたことだろう。
敗戦直後の親戚知人がいない土地での葬儀は大変寂しいものだった。今日のような寒い雪の舞う中、棺を乗せた大八車に私たち家族だけが従った。母は今も、ガラガラと引かれる車輪の音の寂しさが耳に残っていると話す。しかし、南国育ちの私は別で、始めて見る雪が珍しく、窓の桟に積もった雪を集め、砂糖をかけてもらって大喜びで食べていた。
祖母の荼毘の後か前に、仏具屋で位牌と和ロウソクを買った。日田の辺りはハゼの産地で、和ロウソク作りが盛んだ。買い求めたのは古文書の和紙を芯に転用した和ロウソクで、祭壇で火が点きにくく父は苦労していた。場所は火葬場近くの気がするが、3歳の記憶ではっきりしない。もしかすると、日田の後に博多警固の菩提寺に行き、先祖代々の墓前だったのかもしれない。石碑に菊が飾ってあり、右上に高い建物が見えたことを鮮明に覚えている。後年、墓参りをした時、右上を見ると、確かにそのような古い建物があり、記憶の風景に似ていた。
母に確かめると、日田の仏具屋で位牌を買ったのは間違っていない。その位牌は煤けてしまったが、今も仏壇にある。日田は下駄の産地で、私は子供用の空色の地にヨットの絵が描かれた塗り下駄を買ってもらった。当時の子供の履物はもっぱら下駄で、運動靴は粗末な品ばかりで直ぐに穴が空いた。空色の塗り下駄は歯が擦り減って板になるまで履いた。
足の指を巧みに使う下駄は脳の発達に有効との説がある。昭和40年代までは東京でもジーバンに下駄スタイルの若者を見かけたが、最近は絶滅してしまった。我が家の玄関にも長年履いたことがない桐下駄が置いてある。何故か、処分したり、しまう気が起きない。
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