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2008年3月 5日 (水)

福岡県黒木町剣ヶ淵悲話。08年3月5日

朝は寒く曇っていたが、お昼近くなると澄み切った青空が広がった。写真日和なので、今年95歳になる母を自然公園で撮った。写真は母が毎日兄へ出している葉書に入れる。昼食後、写真を葉書にプリントした後、グーグル地図を開いた。長く旅行に出ていないので、衛星写真を見て旅行気分を味わった。

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今日は母の祖先黒木氏が住んでいた福岡県黒木町を開いた。この町出身者に町の名を芸名にした女優黒木瞳がいる。町東方の中世の山城、猫尾城城主の黒木氏は戦国武将で天正12年(1584年)大友氏に攻められ落城し滅んだ。母の祖先はその前に黒木氏から分かれ、有馬氏に仕えて今に命脈を保っている。

グーグル地図で開いたのは初代城主黒木大蔵大輔源助能の妻春日が侍女12人と入水した矢部川剣ヶ淵である。30年前、伯父から見せられた母方の古文書には、春日は夫助能が都から連れ帰った待宵小侍従を討とうとして失敗し入水したとあった。

轟々と流れる渓谷に春日と侍女たちが次々と身を投じる様が哀れに描かれていたが、衛星写真の剣ヶ淵は平坦な町外れを明るく流れるのどかな姿に見えた。
--待宵小侍従と同名の歌人がいるが、それは別人である。

事件の真相は本妻である春日の二人の男子が事件に絡んでいると私は推測する。
御所警備の役として上京していた横笛の名手助能は文治二年(1186年)春、御所での宴の夜、笛を後白河法皇に所望され喝采を浴びた。そして褒美として、子供を宿していた侍女小侍従を下賜された。

助能は小侍従の産んだ四郎を後継者に決めた。そう決めた理由は四郎に付随する名目だけの隣国八千町歩の領有を認める後白河法皇の書状にあったと考えられる。

古文書には意気揚々と猫尾城へ小侍従と四郎を連れ帰る助能が描かれている。彼は単純な現実主義者であったようだ。その事態を正統な兄二人を支持する家臣達が容認するはずがない。春日とその支持者たちは夫助能を迎え撃ったが力及ばず、春日は入水して果てた、と古文書にはあった。

黒木町の伝承には春日はか弱い女として描かれ、嘆き悲しんで入水して死んだとある。伝承のように、春日が夫の心変わりを嘆いて死ぬのなら、12人もの次女たちを道連れにするわけがない。その原因はもっと政治的な激しい争いがあったと考えるのが自然だ。

更に四郎の父は公家徳大寺實定とあるが、古文書には彼ではなく後白河法皇の名があった。民間へは黒木氏が事実を隠蔽するために作り話を流布させたのだろう。もし、後白河法皇の実子なら、その後の四郎の死によって黒木氏は危うい立場に立たされかねない。しかし、公家徳大寺實定の子なら何が起きても問題とならない。

当時、京から国司として派遣された島津家と黒木家は隣国同士で親密で、島津家の八番目の娘、春日が黒木氏に嫁いだ。となれば、隣国八千町歩の領有を認める文書は実家と嫁いだ黒木氏との諍いのもとになった。春日は実家と敵対する助能の態度に怒りを覚えたはずだ。島津家が薩摩へ領地替えされたのはその後のことだ。

四郎は助能の助力で猫尾城二代目城主になったが18歳で突然死して、正統な春日の子が三代目を継いだ。四郎の死は春日の祟りと言い伝えられているが、健康そのものの偉丈夫の突然死には謎がある。例えば正統な後継者の兄達に暗殺された可能性が考えられる。

四郎の死後、姿を写した観音菩薩が京から送られ、今も黒木町に大切に祭られている。四郎の弔いが代々の当主と比べ丁重すぎるのは、上記のような事情があったからかもしれない。

古文書と一緒に江戸時代に子孫が描かせた春日の肖像も伝わっていた。
彼女が本当に夫に背いていたら、子孫はそのようなことはしない。
大友氏に攻められて落城した黒木氏は、幼い末娘が一人だけ鍋島家の家臣に救出された。末娘は姓を調と変えて鍋島家に仕え、御典医として命脈を保って今に至り、横浜に在する。調家の現当主・調照也氏も祖先と同様に横笛の名手である。

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