人生の最期に処分する思い出の道具は。08年3月7日
顔馴染みのKさんに緑道公園で久しぶりに会った。Kさんは70歳少し前の資産家で、身なりの良い精悍な人だった。それが今日は何となく薄汚れ、顔色に生気がない。
「どうされました。」
聞くと、奥さんが脳梗塞で倒れたと言う。幸いにも、血栓溶融剤が適用できる3時間以内に救急病院へ運び込み、後遺症は少なく済みそうだ。しかし、右半身に麻痺が残り、今は必死でリハビリ中だと言う。
「食事と家事にはホトホト困っています。」
突然に一人暮らしを強いられたKさんは、どうして良いか分からないと嘆いた。この先、奥さんが退院されても、後遺症が大きければ、Kさんの負担は更に増える。頼れる子供はいるが数年前から資産処理のことでもめていて、彼は手助けを求めたくないと言う。
「野菜を多く、バランスのよい食事をして下さい。」
しばらく話を聞き、そう言って別れた。裕福な人なので、奥さんの回復状態が悪ければ有料施設に入れるだろう。それでも彼は、これから起きることに不安と焦燥を抱いていた。
家族がいても、Kさんのように突然一人者になることがある。そんな時、家事能力があれば何でもなく対応出来るが、備えがないと大変なことになってしまう。このケースは今執筆中の本と密接に関わる。
執筆は適当に気が向いた項目を選んで手を入れている。
今日は「老後、思い出の行方。」について少し書いた。
・・・邪魔なものをアンケートすると思い出は上位になる。と言っても、失恋とか失敗の思い出の事で、楽しい思い出が邪魔になるはずがない。思い出があれば、何でもない風景でも情感深く美しく見える。老いてはなおさら昔の思い出が単調な生活を彩ってくれる。大掃除の時、古いアルバムや若い頃の旅の記念品や、好きな人からの手紙の束を見つけ、思い出に浸るのはとても楽しい。
以前、モンゴルをテーマにした絵本を描いた時、モンゴル生活の資料を集め参考にした。彼らは大平原に住みながら、住まいは実に小さく、最小限の家具や道具しか持たない。しかし彼らは思い出は大切にする。子馬が生まれたとか、羊が増えたとか、楽しい出来事がある都度記念写真を撮る。だから、昔からモンゴルには写真屋が多かったと資料にあった。確かに、写真なら軽く持ち運びは簡単だ。今なら写真はハードデスクやDVDに、変わっているのかもしれない。
母が愛用している古い竹の物指しの裏には、昭和12年と墨書きされている。手芸材料の箱は机の引き出の転用で、裏に昭和28年と姉の署名がある。それらは母の大切な思い出の品で、今も母の心を豊かにしてくれる。シンプルな生活を最上とし、不要なものの処分を薦めたが、思い出の品は別である。それらはできるかぎり残し、死が間近になったら少しずつ処分を考えれば良い・・・
私の身の回りにも、思い出の資料や道具が山のようにある。やがてそれらの処分を考えなければならない時期が来るだろう。そう考えながら、いつも仕事机の傍らに置いてあるオタフク鎚を手にした。オタフク鎚とは彫金用のタガネを叩く小さな金槌で、一番大切な道具である。長く生活を支えてくれたそのオタフク鎚の古びた樫の柄には、掌と指による凹みができている。辛い時、手にすると、すっぽりと暖かく掌に収まり、生きて行く勇気が湧いた。
多分、私が最期に処分する思い出の品はこのオタフク鎚になるだろう。母の遺品は孫達が引き受けてくれるが、このオタフク鎚は大切にしてくれそうにないからだ。
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