緩やかにグミの茂みへ鈴の音 08年5月13日
九州の兄からビワと日向夏が送って来た。
今朝の五時、母はお礼の電話をしていた。
「最近、身体の調子が悪いから、緊急連絡の電話番号を教えといて」
母は兄へ言った。
「やっぱり、かあちゃんは悪いと」
代わった私に兄が聞いた。
「これから夏だから、かなり厳しいね。次の葉書に携帯の番号を書いといて」
兄に頼んだ。
「そうか」
兄は寂しそうな声に変わった。
寒い曇天だ。時折、小さな雨粒が舞う中、散歩に出た。
「今日も、散歩へ出られて良かったね」
車椅子を押しながら言うと、母は小さく頷いた。
郵便局前の警備員のおじさんが母に、にこやかに挨拶した。
私は彼を"雪だるまおじさん"と呼んでいる。歳は70程で笑顔が良い。太った身体で、直立不動の姿勢から律儀に挨拶する姿が雪だるまに似ている。
御諏訪神社と道路を隔てた向こう側の路傍の階段に、俳句おじさんが腰を下ろしていた。今日も酔っぱらって甲高く良く通る声で俳句を詠んでいた。自作の句らしいが、ろれつが回らず意味不明。髭は白く、60代後半に見える。
漂泊の俳人、尾崎放哉も種田山頭火も共に酒飲みだった。
前者の代表作は"咳をしても一人"。
後者の代表作は"分け入つても分け入つても青い山"だが、遠く霧島を眺めて育った私は"霧島は霧にかくれて赤とんぼ"が好きだ。
3キロほど、車椅子を押して着いた自然公園で私も一句。
緩やかにグミの茂みへ鈴の音
寒い公園は静かだった。母は何度も休みながら10メートル程を歩いた。母の杖の鈴の音を私はゆっくりと追った。
「よく頑張ったね。次は、もう少し歩けるよ」
グミの茂みの下でと母を車椅子に座らせた。
「お元気ですね」
通りかかった顔見知りが母に話しかけた。
「元気ではないですよ」
母は嬉しそうに挨拶していた。
「88歳のお袋が入院しているんだけど、1週間寝ていただけで、まったく歩けなくなっちゃった。やっぱり、歩かせないダメだね。」
顔なじみは嘆いた。彼の母親は今は必死でリハビリをしているが、1メートルも歩けないらしい。
帰り、古民家に寄った。かまどでは薪がパチパチ弾けながら燃え、ハガマからは湯気がたちの上っている。寒いので、母としばらく炎を眺めていると気持ちが和んだ。
古民家前の田圃では、担当の松下さんが明日の田植え準備をしていた。
「早くから精が出ますね」
土手上から声をかけた。松下さんは、水路に群生しているキショウブを少し持って行けと言った。あぜ道まで下りると、莟の多い茎を選んで鎌で切ってくれた。放っておくと水路一杯に生い茂るので、そうやって間引きをしている。
帰り、母は土手上から大きな声で松下さんに礼を言っていた。
「明日の田植えは必ず見ようね」
母に言うと「頑張るよ」と明るく答えた。
以前は、散歩に出るのは当たり前なほど母は元気だったのに、今は明日にならないと分からない。
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