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2008年7月 2日 (水)

日南市大堂津今昔。08年7月2日

ようやく夏らしく気温が上がったが、明日から梅雨に戻りそうだ。昨日より少し暑いだけなのに、散歩をする老人は少ない。静かな自然公園では、トカゲたちが石垣でのんびり日なたボッコをしていた。手を伸ばしても逃げず、生存競争に生き残れるか心配になる。

帰り、東京北社会保険病院の庭を抜けた。鈴なりのヤマモモは次々と熟して落ち、地面を覆っていた。放っておいても誰も摘む人はいない。もったいないので、母の車椅子を遊歩道に置き、1合程摘んだ。ヤマモモは帰宅してから塩水に漬けた。郷里、日南市大堂津では殺菌と除虫を兼ねて塩水に漬ける。塩水くらいで殺菌できるとは思えないが、薄く塩味が付いたヤマモモはとても美味い。

昼食前に、その大堂津のOさんからお中元が届いた。
地元産の干物類で、早速、昼食にアジのみりん干しを焼いた。
午後、Oさんにお礼の電話を入れた。私たちがその町を出てから50年以上過ぎて、彼女はすでに81歳。大堂津の航空写真を検索して、パソコン画面に拡大表示させながら彼女と話した。彼女は私が彼女宅の駐車場や近隣の様子まで詳しいので驚いていた。写真で見ると、昔、畑だった所に家が立ち、立派な自動車道路や橋ができている。聞くと、漁師町の生活は激変し、今は、漁で生活している家は数える程しかないようだ。

昔、町には7,8軒の店が並ぶ小さな商店街があった。その通りには白いガラス玉の街灯が10本程あり、夕暮れに明かりが灯ると、田舎者の私たちは、「まるで、都会みたいだ。」と目を輝かせた。
商店街の外れに映画館があり、どさ回りの芝居、奇術、曲芸、少女歌劇、タップダンサーからストリプまで上演した。戦後間もなくの漁師町は豊かで、彼らはそれに惹かれてやって来たようだ。だから私は、進駐軍指導の教育映画からいかがわしい見せ物まで、戦後文化のごった煮にどっぷりと漬かって子供時代を過ごした。

私たちがその町を出てから、映画館と商店街が消え、個人経営のスーパーが出現した。そして、スーパーは大手に淘汰されて、今は数軒のコンビニがあるだけだ。だから、毎日の買い物は車で隣町の南郷や油津の大手スーパーまで行く。これでは老人だけの生活は厳しい。
昔は、小学校の学童数は700人以上だったが、今は100人を切る。それでも家の個数が増えているのは、核家族化が進んでいるからだ。風光明媚で活気のあった漁師町は、今は広い道を車ばかりが行く海辺の寂しい田舎町に変わってしまった。

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