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2008年7月 4日 (金)

友人の母親の死に、激動の昭和史の終わりを感じた。08年7月4日

月曜に友人の母親が亡くなった。宮崎の高級介護施設に入所して1年たらず。胃ガンが進行して、施設から病院へ移って間もなくの急変だ。丁度、友人は見舞いに帰省していて、最期に立ち会うことができた。前夜まで普通に昔話をしていた翌朝のことで、彼は驚いたようだ。

彼女は母より1歳上の大正元年生まれ。父親は満鉄大和ホテルの総支配人で満州で育ち現地で新京医大卒の医師と結婚した。
その後、激動の戦中戦後を乗り越え、夫と共に命からがら宮崎に引き上げた。しかし、敗戦直後の日本の生活水準の低さには愕然としたと言う。戦前の満鉄関係者の住まいは暖冷房付きで水洗トイレにダイヤル式電話の近代的な生活だった。それから、いきなりの汲取式で暖房無しの和式生活を強いられ、驚いたようだ。

「また、天井がなくなって、いよいよ、俺たちが逝く番が来たな。」
と、友としみじみと話した。親が逝った後は喪失感だけでない。次は、自分たちに死が訪れると考えてしまう。電話を切った後、一つの歴史が終わったと感じた。
葬儀は無宗教で身内だけでひっそりと行ったようだ。それもまた、満州帰りの彼女の野辺の送りには相応しいと思った。これで、古い友人たちの親で生き残っているのは私の母だけになった。母が肝臓ガンを宣告された時、すぐに逝ってしまうと思っていたが、細々と生き残り最後になってしまった。

今日の母は通じが止まっていた。通じが止まると心臓に負担をかけ体調が低下する。
散歩から帰宅してすぐ、毒掃丸を少量飲ませた。これは大黄を主剤に幅広く使える家庭薬として調合されているが、高齢の母は下痢を起こしやすい。

基準服用量の五分の一の3粒を飲ませただけだが、午後に母は粗相をしてしまった。
「迷惑かけて、すまないね。」と、悄然としている母に、「出過ぎるのは俺でも処理出来るけど、止まったら病院行きになるから、これで良いんだ。」と、淡々と説明した。
始末はすばやく、回りに新聞紙を広げ、汚れものを次々とと包んで処理した。介護に新聞紙はとても役立つ。電子新聞に変えないのは、このために必要だからだ。
処理は極薄の使い捨てゴム製手袋を使うが、慣れているので全く汚さない。寝間着やタオル類は、いつも洗濯機に溜めてある殺菌剤入り石鹸水に放り込んで洗う。今日は汚れが多いので、石鹸水を取り替え二度洗いをした。こんな時、二槽式洗濯機は、構造がシンプルで、洗い方を自在に設定できるので重宝する。幸いにも午後は好天。洗濯物は夕暮れまでに乾きそうだ。

今日は31.6度と今年初めての真夏日になった。風の抜けの良い住まいなので、暑さは全く感じない。夕暮れから再び天気は雨へ、との予報は外れそうだ。このまま西日本に引き続き梅雨が晴れるかもしれない。

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