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2008年10月21日 (火)

介護では、強気な対応が寝たっきり防止になる場合もある。08年10月21日

19日日曜日朝、「疲れた。」と母は起きようとしない。熱を計ると37度4分。昨夜に引き続き、再度、葛根湯を飲ませ様子を見た。小一時間しした頃、母は「訪問介護を頼んでくれない。」と訴えた。「今日は日曜だから、何処も頼めないよ。」と答えると、「何か頼むと直ぐにダメダメと言う。今直ぐにじゃなくて、その内と言っているのに。」と怒りだした。母の反応は理不尽だが、怒ったことで却って安堵した。もし、肺炎等の重篤な病が隠れていたら無気力に話す。だから、怒ったのは元気な証拠でもある。
再度、熱を計ると37度に下がっていた。
「熱はない。じっと寝ていても、疲れは取れないから起きよう。」
と、母を無理に起こして、テレビの前に座らせ、歯磨きと洗顔をさせた。それから、遅い朝食を摂らせた。朝食後30分、更に検温すると36度8分と平熱の範囲。それならいつもの散歩が出来るので、外出着に着替えさせ、赤羽駅前まで連れて行った。

帰宅した後、母は普通に一日を過ごした。もし、母を一日寝て過ごさせていたら、疲れは取れず、そのまま寝たっきりになっていたかもしれない。介護はリスキーだが、そのように強気に対応した方が良い場合もある。熱が出た原因は分からない。母の寝室は朝日が差し込むので、布団が温められ、それで体温が上昇したのかもしれない。母は年を取るに従い、変温動物に近づいているようだ。

Kama21日火曜日。
今日も自然公園へ母を連れて行った。日射しは熱いが日影は涼しくて心地良い。歩道の手摺にメスカマキリがいたので母と記念写真を撮った。
「自然公園へ来ると、生きている実感がする。」と、母は木陰で深呼吸をしていた。私も自然は眺めるだけでストレスが消える。温暖化とか、人の利益を起点においた自然保護運動があるが、損得関係なく自然は絶対に素晴らしい。

管理棟前の広場ではおじいさんばかり50人ほどのグループが昼食会をしていた。みな、ビール片手に実に幸せそうだ。
酔っている老人を見ると、母はきまって久留米の頃の、溺愛してくれた曾祖父甚平さんの思い出を話す。母は赤ん坊の頃、甚平さんの娘である祖母の養女になった。だから、甚平さんがとは血の繋がりがない。
甚平さんは酒好きで、毎日、1合かっきりだけ晩酌していた。その自制心のおかげで、85歳で死ぬ迄、歯は一本の欠損もなく、堅い肉を好んで食べていた。母が身につけるべき躾や家事も、甚平さんが祖母に代わって教えてくれた。しかし、母の養母である祖母の教育には失敗したようだ。

祖母は頼まれると、相手かまわず安易に保証人を受ける人だった。殊に、夫健太郎が40歳で死んでから、何度となく母はその後始末で苦労させられた。ある時祖母は、今のお金で1億程の債務を負った。母は苦労してその十分の一を作り、債権者を集めた。
「保証した金は1割だけ支払って終わりにする。それが不満な人には1円も支払わない。」と、母は啖呵を切った。債権者たちは素直にその要求を飲んだ、と母は言っているが、20歳そこそこの娘の無茶な要求を飲むはずがない。そこには裏があると思っている。

表向き、養父健太郎は芝居の書き割りを描いたり小道具を作る仕事をしていた。しかし、彼の私生活は、このブログ最初の-崖の上の家。吉原、遊郭。2002年8月2日-にあるように派手である。母は何も話さないが、彼にはもう一つのヤクザな家業があったと思っている。なぜなら、健太郎は北九州一円を縄張りにする大親分と家族ぐるみ親しく付き合っていた。その関係は健太郎の死後も続いていたので、債権者たちはその背後関係を恐れて20歳の母の要求をすんなり飲んだ、と私は見る。しかし、その一件以来、祖母に保証人を頼む者は減り、母の目論みは巧く行った。

10月18日の記入にある若い母の写真はその頃のものだ。健太郎の写真も残っているが、いかにも喧嘩が強そうな精悍な男っぷりである。残念ながら、彼と私は血の繋がりはなく、そのような武闘派の片鱗はない。
対して、母の実父は有馬藩の上級武士家系の軟弱な遊び人で、遊びが過ぎて実家から廃嫡された。その苦しい時に母は養女に出された。その辺りは以下に詳しい。-久留米、母の実父の思い出。08年3月16日-

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