爽やかな秋の日、簡素な霊安室で姉と対面した。08年10月4日
10月3日。
母の内科診察から帰宅して、車椅子から下ろす準備をしていると、家の電話が鳴った。母を車椅子に残し、慌てて家に入って受話器を取ると上の姉の夫からだ。彼と姉は別居中で、現在、離婚協議中。彼は沈痛な声で「突然の電話で、薄々感じていると思うけど、今朝早く・・・」と姉の急死を告げた。姉は夏前から入院中で、弱っていることは知っていたが、これ程急とは、心底驚いてしまった。
葬儀については、姪と相談すると伝えて電話を切った。姉には4人の娘がいたが、東京近郊で一人暮らしをしていた。
すぐに、姉の世話をしていた姪に電話して、死に至る経緯を聞いた。
姉は、親しい婦長が勤務する上福岡の病院に入院していた。中程度の糖尿があるだけで、生死に関わる病気はない。ただ、夫との別居に加えて娘たちとの軋轢があり、心労重く摂食障害を起こしていた。姪の話しでは、体力は極度に落ちていたが、死の前夜まで普通に会話していたと言う。推測だが、死の前夜、姉の心臓が衰弱したのにアドレナリン分泌等が十分でなく、心停止に至ったのだろう。生体反応が脆弱になったのは、生きる気力をなくしたからだ。享年69歳。再起するには、姉には遅過ぎる年齢だった。
姉が危篤だと伝えたが、母はすぐに真実を察した。母は動揺することはなく「仕方がないね」と、つぶやいた。火葬は5日日曜日。それまで遺体は上福岡の小さな葬儀社に預けてある。
母が姉と最期の別れをしたいと言うので、すぐに介護タクシーを手配した。しかし、1週間以上前に予約しないと無理だと、どこも引き受けてくれなかった。仕方なく、明日は下の姉に母を任せて、私一人で対面に出かけることにした。
10月4日
爽やかな快晴のもと、久しぶりに母を自然公園へ連れて行った。三日間、散歩を休み、母の体力はかなり落ちている。だから、姉の訃報を聞いても散歩を休む訳にはいかない。車椅子を押しながら姉のことを話した。母は長兄が死んだ後、次は上の姉だと思っていた。しかし、自分より先に逝ったのは予想外で、どうしても実感がわかないと話していた。
お昼に帰宅すると下の姉が来ていた。午後2時、喪服に着替え、姉に母を任せて出かけた。
東武急行でふじみ野下車。タクシーで葬儀社に着いた。それは看板がなければ気がつかない小さな民家だった。プレハブ作りの狭く簡素な安置所に置かれた棺に、姉と離れて暮らしていた姪が付き添っていた。姪は私の顔を見るなり泣き出しそうになった。
「バカヤロー。今頃泣いても遅い」
叱ると、姪はすぐに嗚咽を押し殺した。姪は車で待っているからと、外へ出て行った。棺の蓋はずらして開けてあり、顔がよく見えるので携帯で撮った。姉は今まで見たことがない穏やかな優しい表情で横たわっていた。
「やっと、楽になったな」
額に触れると冷たかった。自分勝手な姉とは心の食い違いが多かったが、冷たくなってしまうと、万感迫るものがあり、悲しみがこみ上げた。線香が燃え尽きるまで付き添い、外へ出ると姪が車で駅まで送ると言った。
「俺はいい。少しでも長く、お母さんに付き添っていな」と言うと、姪は再び泣きそうな顔をした。
葬儀社の前に、田舎風の荒れ果てた寺があった。改めて見渡すと、畑が点在する住宅地を午後の陽が照らしていた。うら寂しい郊外風景の中、簡素な霊安室で終わった人生は、姉にふさわしいと思った。
上福岡駅へは車を拾うつもりだったが、田舎道でタクシーは来なかった。歩き慣れない短靴で、ケヤキの並木道を20分ほど歩いて上福岡駅に着いた。
帰り、隣駅のふじみ野で下車し、駅近くの友人宅を訪ねた。友人も去年から今年へ身内を4人なくしている。
「この歳になると、見送るばかりだな」
下戸の友とチーズケーキを食べながら、しんみり話した。
7時過ぎに、帰宅すると、待っていましたばかりに姉は帰って行った。撮った姉のデスマスクはすぐにプリントして母に見せた。
「いい子、いい子。私も、すぐに会えるからね」
母は写真を撫でた。
明日の荼毘には下の姉が列席し、私と母はいつものように自然公園へ散歩へ出かける。
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