墓は自然に風化して無くなるのが良い。08年11月12日
散歩の行きがけ、御諏訪神社の狛犬を撮った。裏に大正2年建立とあり、母と同じ歳だ。力強く伸びやかで、それでいて可愛い。芸術的センスに溢れた江戸石工の作だろう。
近年の石像は中国産が多く、正確に彫られているだけで味わいがない。かと言って日本の職人は、もっと悪くなった。先日、西赤羽の亀池弁財天の社が新しく建て直されたが、彫刻も木組みもまるで素人で、見るに耐えない。そんなことなら、古い社を修復する方がずっと良かった。
緑道公園脇の墓地から読経の声が聞こえた。見ると、永代供養をしているのか、合葬用の納骨堂に喪服姿の家族らしき4,5人が合掌していた。通り過ぎてから、「うちの墓は、どうしようか。」と母がつぶやいた。博多の寺の父方の墓は、霊廟への改築にともない、無くなってしまった。墓の遺骨は納骨堂に仮安置してある。自分の死後の事は皆に任せる、と母は言っているが、まだ、私のように割り切れないようだ。
私は墓を持たない主義だ。寺や墓が無くても、何時何処でも手を合わせれば祖先を供養したことになる、と考えている。日本人が墓石にこだわるようになったのは近世に入ってからだ。それ迄は、墓石を建てるのは高貴な人だけで、一般人は土葬して墓柱を建て、何代か経れば草むして墓の在処は分からなくなった。もし、過去の総ての人の墓が残っていたら、東京等、何層にも墓が重なり、人の住めない場所になっていた。墓も遺骨も自然に風化して無くなるのが良い。
日本の酸性土壌では骨はやがて溶けてなくなるが、エジプトは違う。あの乾燥した風土では特別の措置をしなくても、埋葬された多くの遺体は自然にミイラになった。5千年のエジプト史の間にできたミイラは膨大で、昔は輸出する程大量に出土していたようだ。宗主国のイギリスではミイラに巻かれた麻布を輸入し、リサイクルして紙に漉いていたほどだ。エジプト現地でも、ミイラを蒸気機関車燃料に使ったとの記録がある。
中国や日本ではミイラを輸入していて高貴薬の原料にしていた。裕福なミイラには香油や薬草が大量に塗られていたので、それらとアミノ酸との相乗効果があったのかもしれない。漢方には竜骨という神経症の薬がある。動物の骨の化石で、主成分のカルシウムと僅かに残った変性したアミノ酸が複合して薬効を示す、と考えられている。ミイラの薬効もそれに近いのかもしれない。
今の漢方医学はまがまがしいものは少なくなったが、昔の漢方薬局のショーウインドウにはサルの頭の黒焼きや、オットセイの一物の干物等がうやうやしく飾られていた。それは博物館の薄暗い怪しい雰囲気に似ていて、子供たちの好奇心をかきたてた。もしかすると、明治期にはミイラも飾られていたかもしれない。私の記憶でも、薬局のウインドウには客寄せに、病気の皮膚や臓器の蝋細工見本が必ずあった。その感覚なら、あり得ないことではない。
墓から脇道にそれてしまった。母の遺骨は微粉末にして草花の種と混ぜ、ゆかりの野山にこっそり撒こうと思っている。その時になれば、兄姉たちは墓を建てて埋葬すると言うだろうが。
赤羽自然観察公園の田圃の切り株から青い芽が伸び始めた。私の郷里日南市は暖かく、暮れまでに伸びて穂をつけ実っていた。籾の品質は悪いが、鶏の餌くらいにはなった。
稲刈り後の落ち穂拾いは誰でも自由だった。死んだ姉が中学生の頃、1里離れた山間にある細田中学から、落ち穂拾いをしながら帰ったことがある。友達も協力してくれて大量に集まり、新聞紙を広げ皆で脱穀すると、数升の籾が取れた。籾は近所の精米所に持ち込んで、籾擦りしてもらった。戦後の食糧難の頃で、母は随分助かったようだ。住んでいた漁師町大堂津は魚や野菜は豊富だったが、米だけは不自由だった。
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