正月準備は煩わしいが、止めると寂しくなる。08年12月25日
写真、買い物帰りの桜並木。母の背後に写った泥付きゴボウが、尻尾みたいだ。
いつもの散歩は止めて、赤羽駅前へ出た。クリスマスで華やいでいると思っていたが、飾り付けはほとんどない。わずかにケーキ屋の出店の傍らに質素なツリーがあるだけだった。
高架下アルカードの腰痛がちのサンタ人形は4,5歳の男の子一人の前で、クリスマスソングを寂しく熱演していた。眺めながら、ジングルベルで騒々しかった以前のクリスマスが懐かしくなった。軽薄でも、あの時代はまちがいなく活気があった。車椅子を押しながら、そんなことを話すと、「にわかクリスチャンの酔っぱらいが沢山いたね。」と、母は懐かしそうだった。
子供時代の大堂津は漁師町でクリスマスを楽しむ習慣はなかった。
しかし、都会育ちの母は、特別料理を作ってくれた。定番はトマトベースのビーフシチューで、大鍋で前日から牛肉の塊やテールを煮込んだ。二日、煮込んだシチューは肉もタマネギも人参も溶ける寸前で美味かった。
クリスマスケーキは隣町の油津でも売っていなかった。それで母はナッツや干しぶどうやチョコを沢山入れ、ロシアケーキ風のものを蒸しパン鍋で手作りした。今食べたら美味しいものではないが、当時は、どの材料も貴重品ばかりで、完璧な田舎の子供だった私たちには、大変な御馳走だった。
当時、母の兄が北九州の小倉で進駐軍相手の仕事で成功していたので、干しぶどうやチョコはそのルートで手に入れたのだろう。蒸しパン鍋はドーナツ型で真ん中に穴が空いたアルミ製で、熱の通りが良く重宝していた。終戦直後当時は、その鍋で雑穀粉の蒸しパンを作って飢えをしのいでいたので、どの家でも必需品だった。
食べ物以上に楽しみだったのはクリスマスプレゼントだ。しかし、我が家は竃に細い煙突が付いているだけで、サンタは細い煙突から、どうやって来るのだろう、と私はいつも心配していた。
それでも、一番大きな、よそ行きの黒い長靴下を枕元において寝た。プレゼントはいつも大好きなブリキの電車で、目覚めると長靴下をパンパンにして電車が入っていた。
子供の頃から電車は大好きだった。
宮崎県内には電車はなく、たまに博多へ連れて行ってもらうと夢中で眺めた。
一番好きだったのは路面電車だ。当時はパンタグラフではなくポール式で、終点に付くと乗務員がポールの紐を引いて下ろし、切り替えて引っ返した。その時、架線とショートして青い火花が散るのをワクワクしながら眺めた。電車好きは今も変わらず、都会風景の絵には必ず電車を描き入れてしまう。
モミの木に失業サンタが首くくる
去年の12月に作った句だが、景気が良かったので「失業」ではなく「失意」に変えてブログの題名にした。"モミの木に失意サンタが首くくる"
しかし今年は、残念ながら元の句がピッタリになってしまった。
赤羽駅高架下のビバホームのクリスマス飾り売り場は今夜のうちに撤収されて、正月飾り一色になる。明日は母の内科定期診察日。病院帰りに正月飾りを買うつもりだ。
今日は屠蘇散を赤羽駅近くのマエノ漢方薬局で買った。さすがに漢方薬店らしく質が良く、封を切ると肉桂と陳皮の香りが住まい中に満ちた。屠蘇散はすぐに本味醂に漬けた。以前は味醂を日本酒で割っていたが、味醂だけの方が好物だ。
他に、昆布巻きの代わりに、身欠きニシンを昆布と甘辛く煮込んだ。明日から、塩数の子の塩抜きを始める。年賀状は23日に総て書き終え投函したので正月に配達されるだろう。
暮れは金が出るばかりの上、忙し過ぎる。手分けできる家族がいれば、正月準備も楽しい。大家族だった子供時代は、餅つきの手伝いが楽しみだった。今は一人準備で疲れるが、何もしないと更に寂しい正月になる。
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