思い出の多い銀座へ母を連れて行ったら、惚け気味の頭が治った。09年4月28日
昨日、母を銀座へ連れて行った。
きっかけは、シェーバーの外刃が壊れたからだ。シェーバーは二年前、池袋ビックカメラで超格安3500円のサンヨー製を買った。安物でも切れ味は良く、くせ毛も綺麗に剃れて気に入っていた。
とりあえず、散歩コースのイトーヨーカ堂に問い合わせると、注文してから入荷は二週間後と言う。池袋ビッカメラならすぐに手に入るが、散歩後の再外出は気が重い。それで、有楽町ビックカメラへ、母の散歩を兼ねて連れて行くことにした。有楽町店は池袋と違い、バリアフリーが行き届いている。
母には銀座行きは伏せておいた。
いつものように散歩へ連れ出し、「電車に乗って電器屋へ行く。」と伝えた。埼京線北赤羽駅にもエレベーターがあるが、買い物の都合で赤羽駅まで行った。
京浜東北線の新車両はホームとの段差が少ない。母がJRに乗るのは、6年前、がん手術をした駒込病院への通院以来だ。
写真1。
「何処まで行くの。」
上中里を過ぎた辺りで母が聞いた。銀座と答えると、母は黙り込んだ。聞くと「嬉しくて声も出ない。」と言う。
昔、私の収入が安定している頃、母は芝居や買い物に銀座へよく出かけていた。戦前の一時期、母は祖母たちと神田で暮らしていた。その頃も銀座へよく行っていた。
思い出深い街だが、車椅子になって諦めたようだ。
有楽町ビックカメラはバリアフリーが行き届き、楽に売り場へ行けた。
目的の替え刃は1400円とシェーバー本体価格と比べると極めて割高。この価格設定はプリンターに対して割高なインクと同じだ。替え刃のついでに、プリンターのインクも補充しておいた。
ビックカメラからマリオンへ出た。
母が最後に有楽町へ行ったのは、マリオン前身の日劇解体が始まった頃だ。それ以降はシルバーパスを使いバスで銀座へ行っていたので、マリオンは知らない。
日劇の頃まで、近くのドイツ料理店ジャーマンベーカリーで母は黒パンを買っていた。それはずっしりと重く香ばしい個性的な黒パンだった。
果物入りのケーキを固く丸め、チョコレートをかけた菓子も好物だった。
45年前、私が始めてハンバーガーを食べたのもここだ。そのころはザワークラウトとビーツの輪切りが添えてあり、かしこまってナイフとフォークで食べた。
そのジャーマンベカーリーがマツモトキヨシに変わってから10年以上過ぎた。ジャーマンベーカーリーの本店は横浜元町にあったが、今はそちらもない。道々、母はそんなことを走馬灯のように思い出して話した。
写真2。
マリオン前で12時の時報。母がカラクリ時計を見るのも始めてだ。
晴海通り和光手前で左折して、去年個展をしたギャラリーオカベへ行った。
オカベの川口さんたちに手伝ってもらい、段差のある入り口を強引に車椅子を引き上げ、画廊へ入った。今やっているのは宗教画の"松岡裕子展"。
「もうすぐ、こんな世界へ行くんだよ。」
臨死体験のようなビビットな作品の前で、母に言うと、
「また、そんなことを言って。」と、川口さんにたしなめられた。
写真3。
オカベから銀座通りへ出た。
松坂屋地下2階の車椅子用トイレが評判なので、連れて行った。設備も広さも申し分ないが、王子の北とぴあ10階の車椅子用と比べると見劣りがする。広々とした眺望の北とびあ10階の車椅子用トイレは最高だ。
2時過ぎに帰宅し、クタクタに疲れた。母は、戦前のことまで思い出し、能弁になっていた。こんなに喜ぶなら、次はお台場に連れて連れて行こう。
昭和初期、母は雨のお台場海水浴場で泳いで風邪を引き、肋膜炎になった。肋膜炎は結核の一種で、当時は致死率が高かった。
「若くして、死ぬのか。」と、母は涙が止まらなかったと言う。しかし、稲毛のサナトリウムで1年近く療養した後、無事生還した。当時の結核治療は、十分に栄養を摂りながら、清浄な海岸や高原で冬も窓を開けたまま過ごす開放療法しかなかった。1年で生還できたのは根が丈夫だったからだろう。
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