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2009年7月 3日 (金)

悪運の強さで、命が助かり危機を乗り越えた。09年7月2日

昨夜は何度も母にブザーで呼ばれた。どれも、母の錯覚によるものだ。そんな母に緩慢な死を感じる。このまま順調に行けば、兄姉と続き、最後に私が逝って家族が消える。それは延々と繰り返されて来た当たり前のことで、センチメンタルになることではない。しかし、私個人の問題として考えると重い。母までは頑張って関わるが、兄姉までは無理だ。私自身、若い頃のように軽々と生きられなくなった。

先日、トライアスロン山本良介日本代表を取材した番組を見た。
彼は若い頃、暴走族に加わり喧嘩に明け暮れていた。しかし、母親の説得で族を抜けた。その時、仲間からボコボコに殴られた話しを彼はしていた。

人ごとのように聞いていたが、ふいに、私自身にも似た経験があったことを思い出した。
彼ほど過激ではないが、私も中学生の頃、つまらない不良グループに加わっていた。私がグループから抜けたのは、彼ほど明確な意志があった訳ではなく、幸運によるものだ。

昭和34年、中学3年の夏休み前、毎日のように学校をさぼって仲間と川で泳いでいた。
そこに一匹狼のKが加わった。彼は喧嘩が強いだけでなく泳ぎも上手い。彼は潜って、私たちの足を掴んで水中に引き込んだ。突然に引き込まれると、苦しいだけでなく死の恐怖を覚える。

それについて苦い経験があった。
昭和29年、小学3年の頃、大堂津海水浴場沖の遊泳禁止区域で、溺れた上級生にしがみつかれ共連れになりかけたことがあった。何度も水面が遠くなり、もうだめだと思ったが、必死に上級生を振りほどき、海底の砂地を蹴って水面に出た。幸運にも、目の前に大きな浮き袋に乗った他校生がいて助かった。もし、彼らがいなかったら、しがみついた上級生もろとも命を終えていたかもしれない。

それでも水恐怖症にならならず、ずーっと水泳は好きだったが、心の奥深くにトラウマになり残っていたようだ。私はKと泳ぐのがいやで、仲間の溜まり場の川へ行かなくなった。それを他の者たちは、私が抜けたと思ったようだ。ある夜、呼び出しがかかり、行くと暗がりに全員が待っていた。私は次々とぶん殴られた。しかし、反射的に急所を避けたので何ともなかった。
「これで良かった。」
殴られながら平静に考えていたくらいだ。

青あざだらけで帰ったが、両親は何も聞かなかった。今と違い、昔の親は男の子の青あざくらいでは騒がなかった。
直ぐに夏休みに入り、私は高校受験勉強に集中した。時折、抜けたグループが二階の勉強部屋下へ来て、窓に石を投げつけて嫌がらせをしたが無視した。

二学期の中間テストで、私は一気に200人抜きをして全校トップになった。トップはそのまま維持し、県下一の進学校に進学した。そのまま、大学受験勉強を続けていたら、人生は大きく変わっただろう。しかし、簡単に成績が上がったことで自分を過信し、勉強をせずに一日中絵を描き、映画に熱中した。その結果、昭和38年、芸大受験は一次の英国社の学科で失敗した。しかし、失敗は結果的に絵描きとして良かった。もし、受かっていたら、私は仕方なく美術教師の職を選んで終わっただろう。

世間では芸大入学即プロの道と考えている。デザイン関係ならならその通りだが、絵描きは厳しい。同時に入学した中で、絵が売れるようになる者は殆どいない。父の友人や母の遠縁にプロの絵描きがいたので、私は子供の頃から生活の大変さをよく知っていた。受験に失敗すると浪人はせずに彫金職人を目指し、生活の安定と自由な時間を確保した。その回り道は正しく、後年、何とか絵が売れるようになった。

二度の人生を変える出来事を、Kと他校生の浮き袋との出会いで乗り切った。
今もギリギリで生活危機を乗り越えられているのは、その悪運が続いているおかげだ。ところで不良グループのその後は、少年院から刑務所と転落の一途と聞いている。もしKがいなかったら、それからの自分の人生は想像するのも恐ろしい。

先週の日曜、赤羽自然観察公園で若者たちがバーベキューをしていた。その中に、仲間を手伝わず、禁煙の張り紙の前でタバコを吸いながらいちゃついている男女がいた。傍らで子供たちが「吸っちゃ、だめなのにね。」と話している。突然、私は頭に血が上り母の車椅子を押して若者たちに近づいた。
「張り紙に禁煙とあるでしょう。子供の教育に良くないから止めなさい。」
私の言葉に、女は謝ってタバコを消した。しかし、男はふてくされて睨みつけている。何だこの野郎、と私も睨み返してしまったが、「危ない危ない」と、すぐにその場を去った。私は見た目も性格も弱々しく極めて温厚だが、突然に50年前の癖が出て向こう見ずになる。

緑道公園で出会ったクーちゃんと96歳寸前の母。この1年後に母は、在宅で私に看取られ静かに死んだ。

Quu

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