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2009年10月19日 (月)

母が落ち着き安堵している中「帰って来たヨッパライ」の訃報を聞いた。09年10月19日

Wan_1加藤和彦氏自殺。彼の属していたグループ、クルセダーズのデビュー曲「帰って来たヨッパライ」は大晦日の上野駅ホームで聞いた。

1967年の晩秋、ラジオ関西の深夜番組で放送されて話題になり、早くも12月25日に東芝(現・EMIミュージック・ジャパン)からシングル盤が発売された。私が上野駅で聞いたのは発売直後の22歳の大晦日だ。当時は暮れの深夜列車に、早くから並んで待った。一人旅の私の回りはスキーグループと帰省客で、あちこちの携帯ラジオからその曲が聞こえた。

私は上野発夜行列車で青森弘前へ向かった。車中の携帯ラジオからも「帰って来たヨッパライ」は聞こえた。そのせいか、あの曲を聞くと、夜行列車の氷点下に冷えた窓に薄氷の花が凍り付く光景を思い出す。

曲は大変面白いと思ったが、繰り返し聞きたいほどではなく、クルセダーズのフアンにはならなかった。加藤和彦氏はその後もマスコミで目にすることが多く、いつも曖昧に笑っている細身の長身の人、が私の印象だ。もしかすると彼は傷つきやすい人で、自己防衛のために意味不明の笑顔を絶やさなかったのかもしれない。今回の自殺を聞いて、何となくあの笑顔の意味が分かった気がした。

自殺の原因は欝症とか作品が作れなくなったからとか色々言われている。原因を一つに絞るのは無理で、作品に切れ味がなくなり欝に陥り、精神科へ連れて行ってくれる人もいなかったのが真相だと思っている。

佳い作品が生まれるのに、環境は大きく影響する。恵まれた環境なら佳い作品が生まれる訳ではない。むしろ、生活苦と病苦と重なっている時に傑作が生まれたりする。

彼は若くして名を成し、作家として大変恵まれていた。彼のエピソードに若くしてロールスロイスを乗り回し、離婚を3度繰り返し、浮き名も多かったとあった。それらの恵まれた環境が逆に創作への弊害になったのかもしれない。

後で、死ぬくらいなら死ぬつもりで自由に生きたら良かったのに、と言われる。しかし、自分で生き方を修正できないのが欝症の怖いところだ。欝症は自力で治せない病気で、早く専門医にかかって適切な治療を受けないと悲劇を生んでしまう。
クルセダーズ時代の仲間北山修氏は今精神科医をしている。古い仲間が欝症と知りながら、救えなかったことに大きな悔いが残るだろう。

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今日の散歩途中、東京北社会保険病院下の公園にて。
この母を見ると、わずか2,3メートルを歩くのに息絶え絶えなくらい弱っているとは誰も思わない。しかし、元気そうな写真を撮るのは母の健康法だ。今日は兄への葉書7枚それぞれにプリントして母に見せると、「私は、こんなに元気なの。」と、とても喜んでいた。

昨夜もその前夜も、母に起こされなかった。
母は一昨日私がダウンしたのが余程のショックで、一瞬で頭がしっかりした。加えて、睡眠導入レンドルミン0,25mgを2錠飲んでいたのを1錠まで減らした効果もある。レンドルミンは通常1錠服用になっているが、医師の判断で適宜増減する。しかし、高齢の母の場合は解毒や排出作用が衰え、少量でも長時間身体に停滞して、大量服用と同じ副作用を起こす。

母の場合、2錠から1錠へ少しずつ減らして行くうちに、服用後の頭の混乱は明らかに減って来た。以前の母なら、減らすと一睡もできず苦しむが、昼もウトウトしている現状では、全部止めても問題はない。しかし、先日記入したように、念のため偽薬としてエビオスを4錠加えて服用させている。母は、偽薬をとてもよく効く安定剤だと信じ切っている。

母の自覚とレンドルミン減量のおかげで、深夜ブザーで起こされなくなった。しかし、途切れ癖のついた私の睡眠は治らず、午前2時と3時半辺りで必ず目覚める。目覚めれば、母の様子を見に行くが、呼吸が浅くて微動だにしない母の寝姿は本当に死んでいるように見える。この安定はつかの間のことだ。今は問題に一つ一つ対応する他ない。

記入を終えた頃、ブザーが鳴った。急いで行くと母はしきりに謝った。枕元を片付けていて、間違えてブザーを押してしまったようだ。まだ9時だから気にしないで良い、と母の頭を軽く叩くと、叩かないで撫でろと文句を言った。以前なら、この時間帯から意味不明のことを言って悩まされる。しかし今は、頭がしっかりしていて助かる。

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