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2009年11月 4日 (水)

銀製の百円玉。09年11月4日

Dor昔のドロボーはこのスタイルで描かれていた。
無精髭でハンチングに、ニッカボッカにゲートルに地下足袋。でっかい唐草模様の風呂敷は必須アイテムだった。加えて、どこか間が抜けた愛嬌があって、人の温もりがあった。比べると、今の犯罪者は冷徹で非情だ。

タマの全財産を254円にした訳は下記の理由による。

昔、日雇い労働者のことをニコヨンと呼んでいた。語源は昭和20年代の失業対策事業の1日最低保証金240円による。渡されたのが百円札2枚に十円4枚だったのでニコヨンと呼んだ。子供だった私はそれを勘違いし、ニコヨンは254円だと最近まで思い込んでいた。

ニコヨンの語源は百円玉2個の説があるが、百円玉が登場したのは昭和34年で時期がずれる。
最初の百円玉は銀貨で、今の白銅製百円玉と比べると品格も価値もあり、銀特有の肌に吸い付くような柔らかな触感は魅力があった。

ちなみに九州での百円玉の流通は遅く、上京した昭和38年当時も百円札が主力だった。その頃、持参した百円札の束は今もしまってあるが、流通が多過ぎて一向に値上がりしそうにない。

昔、彫金職人をしている頃、年寄りは銀器が使いやすいと知った。実際、銀地金を手にした時の肌に吸い付くような触感は心地良かった。それで、銀製のナイフ、フォーク、ステッキの柄は、掌が乾燥しがちの年寄りでも滑り落しにくく使い易かった。

先の最低賃金の240円は今の金額では3000円ほどだ。
当時、ビー玉で栓をしたラムネが10円。封切り映画や三矢サイダーが30円。かき氷が10円だった。

私の小遣いは母から5円、祖母から10円、合わせて15円もらっていた。五円玉は穴明きと穴無し両方が通用していた。小学2年の時に10円銅貨が登場したが色が地味で安っぽく、同じ貰うなら緑色調の国会議事堂10円札を喜んだ。

それから少し後に1円玉が出たが、あまりに軽く二宮尊徳の1円札の方がありがたみがあった。と言っても、1円で買えるものは芋飴1個くらいだった。戦後直ぐに発行された黄銅製50銭玉も通用していたが、単独で使うことはなく、偶数枚集めて使っていた。

ニコヨンの240円の生活はとても苦しかったはずだ。
先日、バングラディシュの船の解体現場の劣悪な労働環境を報道していた。危険なアスベストや化学物質が混入した廃油にまみれて働いた日収が200円ほどだった。それよりはましだが、今の生活水準から見ると、ホームレス並の生活だった。

Fuji2Hiruga昨日は木枯らしが吹き、雲一つない青空が広がった。

散歩道の傍らに、紫の昼顔が咲いていた。

朝、2メートルを疲れて歩けないと言っていた母は、昨日も今日も赤羽自然観察公園ではきちんと歩いた。母を観察していると、家では緊張して息を止めて歩いている。対して、公園ではゆったりと呼吸しながら歩いている。それで酸素飽和度に差が出たのかもしれない。

今は母に息をしっかりと吐き出すように薦めている。気のせいか、息をしっかりと吐き出すと、やや疲労感が薄まるようだ。

母は毎朝「今日は死ぬ。」と言っていたが、11月に入ってから言わなくなった。どんな心境の変化だろう。死ぬと思っていても、赤羽自然観察公園へ行くと何とか歩けるし、死ぬ気配がないので言う気分が失せたのだろう。

去年、出版が没になった原稿料が、やっと出ることになった。
僅かな額だが、年末年始の生活費のたしになり助かる。昨今の出版不況もあり、そのケースではなかなか金は出ない。10年前までは、小さな仕事でも没になればそれより多い額が出た。隔世の感がある。

下、新作の絵。
月夜に山の動物たちが会議をしている。
小さな子供が話し声に目覚め、会議を眺めている

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