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2010年4月12日 (月)

三谷幸喜作「わが家の歴史」を、母は居眠りせずに見ていた。10年4月12日

先月、生活の危機を乗り越えて安堵したとたん、積年の疲労とストレスが一気に出た。深夜、母に何度も起こされて睡眠不足に陥っているのが一番の原因だ。

そのせいで、先週から口内炎が出始めた。4日前から舌の横にアフタができて、喋っても食べても激痛が走る。ビタミンも栄養も十分摂っているので、原因はストレスと睡眠不足だ。
昔、よく効いた副腎皮質ホルモン軟膏もまったく効かない。唾液を増やすと痛みがやや緩和するので、食事前にシュガーレスガムを噛む。就寝前は、カミツレ、ラタニア、ミルラのハーブエキスでうがいする。しかし、本当に効くのは何もせずにゴロゴロ過ごすことだ。それでこの3日間、母の世話と散歩以外は何もしなかった。おかげで、ようやく治り始め、痛みが軽くなった。明日はほとんど治るかもしれない。

昼間の母はウトウト居眠りばかりしている。日中に起きているのは、散歩中の3時間と食事前後の僅かな時間だけだ。そのせいで夜に熟睡できず、幻覚が起きて私を起こしてしまう。だから、面白い番組を録画して、昼間に見せるようにしている。

昨日まで3夜続いたフジテレビ特別番組三谷幸喜作「わが家の歴史」も録画して母に見せた。2時間半から3時間近くの長大なドラマだが、母はめずらしく居眠りせずに見ていた。戦前から戦後の博多、東京を舞台にした虚実取り混ぜた三谷家モデルのドラマだが、身につまされたようだ。

母は久留米、父は博多出身で、私の本籍は今も博多にある。
父の祖先は黒田藩の下級武士だった。明治維新で勤王側に立って巧く立ち回り、維新後は大きな屋敷を構えるほどに出世した。しかし、祖母は京都から流れてきた友禅染職人と出来て父を生み、一族から排除されてしまった。

篠崎の姓は、一族の中の絶えた家を父が継がされたと聞いている。
35年前、絶えたはずの篠崎の直系と言う、裕福なおばあさんが孫娘と我が家を訪ねて来た。父は「姉さん、姉さん。」と、はしゃいでいた。「血は殆ど繋がっていないのに、金持ちの親戚だと尻尾をふるんだから。」と、母は父をバカにしていた。父は父で博多育ちが自慢で、久留米生まれの母を田舎者とバカにしていた。そんな二人の間に生まれたのが、私の最初の不幸だ。

父は贅沢が大好きで、次々と一攫千金を狙って事業に手を出して失敗した。それは「わが家の歴史」の八女家の西田敏行演ずる祖父の姿に重なる。父はいつも妖し気な人物と交遊していて、延岡山中のマンガン鉱とか、奄美諸島のボーキサイトとか、採掘権を持ち込まれては一儲けを企み、借金の山を作った。父が生涯に手がけた事業は20近くある。その中で成功したのは一つもない。母はそんな父に代わって家計を支えた。その点でもドラマに似ている。

私の実の祖父は、父が生まれる前に祖母を捨てた。私に記憶はないが、不器量な祖母だったから逃げられた、と母は言う。
逃げた祖父が染めた着物は戦前まで遠縁の家に残っていて、母は見たことがある。母の記憶では大変出来の良い染めで、腕は確かだったようだ。それなのに流れ職人になったのは、師匠筋か店とトラブルを起こして京都に居られなくなったからだろう。私は職人をやっていたので、そのあたりの事情は何となく分かる。
後年、私の画才は彼の血を引き継いだから、と思い始めた。だから、逃げた実の祖父に少しだけ敬意を持っている。

母も染め物と縁がある。
母の家系は久留米藩の重臣で、久留米のお城近くに住んでいた。母の祖父は花道と茶道の心得があり、明治維新後は良家の子女に教えて生計を立て没落を免れた。母の父親は嫡男だったが長身で二枚目のモテ男で、女と酒で身を持ち崩した。祖父はやがて染物屋の娘と一緒になった。その母の実母は祖母に大変嫌われ、祖父は家を捨てた。その母の実母は家紋描きが上手かった。母と私は彼女から繊細な感覚を受け継いだようだ。ただし、絵に関して父は繊細で母は自由奔放だった。

祖父は廃嫡され、家を継いだのは真面目な弟だ。彼は民間療法の瀉血の名手だった。瀉血とは滞った汚れた血をメス、針、ヒル、などを使って取り除く療法だ。今も漢方で行われ、最近、西洋医学でも効果が見直されている。
患者は久留米の近郷近在から集まって、家は大変栄えたようだ。弟の子供である母の従兄弟は医学を学び、20年前まで池袋で内科医院をやっていた。その子供たちも各方面で活躍した。私を含めて落伍者ばかりの母の子供たちと比べると、弟の家系は対照的だ。

母は実父が熊本の裁判所に職を得て、生活が安定している時に生まれた。だから、胎教が良くスクスクと育ったと母は思っている。しかし、実母は年子の弟を生むと直ぐに死去し、同時に祖父も仕事をしくじって困窮した。それで2歳の頃に、私が祖母と呼んでいる千代の養女になった。それからの経緯は今まで何度も書いた。

その後の両親の一生は、三谷家に負けず劣らず波乱に富んでいた。それで母は身につまされ、居眠りせずにドラマに見入っていたのだろう。

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昨日とはうって変わって寒い雨。母の散歩は東京北社会保険病院へ連れて行き、廊下で歩かせた。その後、屋上庭園へ出た。写真は屋上庭園から撮った。中央の塔は桐ヶ丘都営団地の給水塔。この一帯では有名で、昔は子供たちの格好の目印になっていた。

Haha2Haha1Haru_2_2上写真。
東京北社会保険病院屋上庭園の満開のカイドウ。
雨が強く、カメラが濡れないように、タオルで包んで撮った。

中写真。
東京北社会保険病院下公園。
花は8分がた散った。
例年のように、一斉に散ることはなく、今年は花持ちが良い。

下写真。
新緑の赤羽台と緑道公園。
中央は桃の花。

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