母は私と一緒に退院したが、取り返しがつかない程に弱ってしまった。10年5月9日
母の入院期間は5月1日〜8日。
私の胆嚢切除手術から退院まで母の世話ができない。それで、病気でもない母を同じ東京北社会保険病院に入院させた。
母はその僅かな間に、立ち上がることができないまでに弱ってしまった。
原因は病院食で、口に合わず母は殆ど食べなかった。
それに気づいたのは、私の術後3日目、やっと母の病室を訪ねた時だ。
「食べられなくても、点滴で補うなど特別な対策はしません。次の食事で補えば済むことです。」
尋ねると、ベテラン看護師はしたり顔に答えた。しかし、母はその次も、その次も食べなかった。仕方なく、ヨーグルトやゼリーなどの母の口に合いそうなものを売店で買って食べさせた。だが、それだけでは不十分だった。
人は食べなければ、自分の身体をエネルギー源にする。その場合、最小限の運動をしないと、脂肪ではなく筋肉が痩せてしまう。姉も連休に入っていたので、毎日、病院に来てもらい母の歩行訓練を頼んでおいた。しかし、姉の訓練は極めて不十分だったようだ。
5月6日、母を訪ねると柵に囲まれたベットで訳の分からないことつぶやいていた。
傍らのポータブルトイレは使った形跡はない。私は背筋が寒くなった。急いで柵を取り除き母を車椅子に座らせようとしたが、母はまったく立てなくなっていた。手術後の痛みに耐えながら、何とか抱え上げて車椅子に座らせたが、母はろれつが回らず、意味不明のことをつぶやき続けた。
病室から見た風景。
外は五月の美しい新緑だった。
「気持ちがいい。」
外へ連れ出すと、始めて母にいつもの笑顔が戻った。
脳が弱ると体力も弱る。もし、外の刺激で頭が少し正常化すれば、体力も取り戻せるかもしれない。僅かながら希望を持った。
翌7日も母を散歩に連れ出した。
期待に反し母は更に弱っていた。一刻の猶予もない。私は抗生剤のアレルギーで酷い湿疹が出ていたが、胆嚢摘出後の回復は順調だった。すぐに私の担当医師に頼んで、月曜退院を土曜に前倒しさせてもらった。
介護施設に母を預けていたら、もしかすると歩行は保てたかもしれない。しかし、連休期間に緊急で受け入れてくれる施設は、埼玉、千葉、茨城などの辺鄙な場所しかない。今の母を辺鄙な場所へ預け、家族から隔離したらボケは著しく進行し、別の形で取り返しがつかなくなっていた。
それは、2008年9月の個展の時、母をショートステイで家近くの浮間の施設に預けた経験で分かっていた。その時母は孤独感に苛まれ、3日目には幻覚が見えるまでにボケが進行してしまった。すぐに退所させて家に置き、馴染みのヘルパーの方たちに自費で来てもらって進行を食い止めたが、幻覚を消すのに半年以上を要した。
今回は同じ病院で毎日会えるとからボケは進まないと判断した。その判断は甘かったようだ。
昨日今日と、必死になって母の脚力の回復を図っている。自立歩行は到底無理だが、抱きかかえれば3メートル程、かろうじて歩いてくれるまで回復した。
「また元気になって、公園へ散歩へ行こう。」
母に言うと、嬉しそうにしっかりとうなづく。だが、体力維持がやっとの97歳の現実は重い。内心、寝たっきりは受け入れる他ないと思っている。
人生は予定通りに行かないものだ。
母は人生のギリギリまで散歩を続け、ある日突然限界点を過ぎて、静かに眠るように逝く。それを夢見ていたが、脆くも崩れ去ってしまった。
5月8日。
退院しての帰り道、東京北社会保険病院の庭を抜けた。
母は僅かな間にげっそりと痩せてしまった。
このシーンを撮るのは、これが最後と思いながらシャッターを押した。
明日月曜日、ケアーマネージャーと相談して、ヘルパー派遣を増やしてもらう。
専門家の手伝いがあれば、車椅子散歩の再開は可能だろう。
だが、今までのように気ままな散歩は無理だ。
今は、母の状態を考えると深い喪失感に囚われてしまう。
--続く
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