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2010年6月22日 (火)

母は心不全で寝込んでいる。新調した円座が役割を果たす前に逝くのかもしれない。10年6月22日

日曜、母の散歩から帰ると車椅子座席のクッションの円座がパンクしていた。それはまるで、母を支える役割を終えたように思えた。

それから昨日へ、母は一段と弱った。ベットに母を休ませて、円座を買いに出た。最初に行った大きなチエーン店には円座はなく、昔ながらの小さな薬局に置いてあった。買えば3年は保つ。しかし、ほとんど使うことなく母は逝きそうな気がした。

数日前に母の右踵が赤くなっていた。どこかにぶつけたのだろうと思っていたら、昨日は赤黒く変化している。心臓が弱り、血行が悪くなって辱瘡ができたようだ。プロスタンディン軟膏を塗ってガーセを絆創膏で止めた。母は終末へ、更に近づいていると覚悟した。

今日は朝から忙しい1日だった。9時半に生協浮間病院に午後の往診を頼み、10時にケアマネのAさんに介護ベットの手配をしてもらった。介護ベットを入れるには、ベット下に保管してある古い額や木枠が邪魔だ。それらは大宮の浜田氏に引き取ってもらうように手配した。浜田氏は絵描きの知人が多いので、有効に使ってくれるだろう。

お昼まで、ベット下と部屋を片付けていると、母が寝たまま粗相をした。元気な頃なら、母自身が動いてくれるので、さほど手間はかからない。しかし、弱った母はマグロのように横になったままで、清拭は大変な作業になった。

無我夢中で片付け、寝間着やシーツを洗濯し、私自身も着ていた服を全部取り替えてシャワーを浴びた。その間、母は死んだように眠っていた。冷蔵庫にあるものを急いで食べて、薬局へ防水シーツの予備を買いに行った。

Kouzo_2上写真。薬局への途中。
北赤羽駅近くに自生したコウゾの実。
ここのコウゾの実は筋っぽさがなく、甘く滑らかな食感だ。
だが、糸を引くような粘り気は、今の子供には人気がなさそうだ。

帰宅して、更に部屋を片付けていると、生協浮間診療所から若い女医さんが来た。先日の可愛い人ではなく、凛とした人だ。

酸素飽和度を測ると72。とんでもなく低い。心不全から肺が浮腫み酸素交換が巧く行っていないようだ。
「すぐに入院しなければならない状態です。」
医師は深刻そうに言った。しかし、母は僅か1週間、病院にいただけで心不全を起こすまで弱ってしまった。違う病院とは言え釈然としない。確かに、1ヶ月も入院していれば、少しは改善するだろう。だが、母のQOLは著しく低下して、更に辛い終末期を迎えることになる。
「入院治療すれば心臓は一時的に回復するかもしれません。でも、それ以上に失うものは大きく、治った心臓もすぐに悪くなります。だから入院はさせません。」
悪化は覚悟の上で家においておくと答えると、医師は困惑していた。
少し、やり取りのあと、「在宅で、できるだけのことをしましょう。」と医師は納得した。そして、すぐに酸素吸入の手続きをしてもらえた。これで、母の呼吸は楽になり、住み慣れた我が家で過ごすことができる。

夕方前に酸素濃縮機が届いた。小型の冷蔵庫程の大きさだ。一緒に外出用の1時間使用のボンベも届いたが、短時間過ぎて役に立たないので、明日、外出用の酸素濃縮機を届けて貰うことにした。

SansoHaha中写真。届いた酸素濃縮機。
重さは30キロほど。
操作は至って簡単。
装着したままシャワーが使えるように、ホースは8メートルまで伸ばせる。

下写真。
カメラを構えて「笑いな。」と言うと、目の下のチューブが邪魔で、引きつったような笑いになった。

粗相をした寝間着を含め、全部洗濯してしまったので慌てた。
押し入れを探すと、古い寝間着が残っていたので助かった。


先日、旧知の方からグルメ便のカタログが届いた。1年間、好きな食べ物を選ぶと毎月送って来る。
冬の月、母が好きなカニを選らびながら、それまでは生きていないような気がした。今は、母の1週間先も確信がない。まして、夏が過ぎて秋、などとはとうてい考えられない。

母が逝けば喪失感があったとしても、間違いなく静かな日々がやって来る。その時は一人でディズニーランドへ昼寝に行こうと思っている。あそこには日本中の幸せな顔が集まっている。若い頃は一人で幸せなカップルを眺めるのは辛かったが、今は違う。幸せな顔を眺めていると気持ちが和んで来る。その逆に、辛い顔を見ると我が身のように辛くなる。

昨夜は1972年制作「男はつらいよ 柴又慕情」を見た。母は始めだけ見ていたが、直ぐに寝入った。映画好きの母は「男はつらいよ」シリーズを一番愛していたのに、その気力も失せたようだ。

一人で寅さんを見ながら、38年前、59歳の母の元気な姿が画面の風景に重なった。
寅さんが空を見上げながら「雲のように、自由に旅したいなー」とつぶやいた台詞が心に残った。
渥美清は言葉通りに68歳で大空へ消えた。

夜、開け放ったベランダから、涼しい風が玄関へ抜ける。
母の様子を見に行くと、目覚めていた。
「いろいろとありがとう。苦労ばかりかけるね。」
母は途切れ途切れに言った。最近、母はお礼ばかり言う。


Ma_3

Ma_4

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Goof

Mas

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