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2010年6月26日 (土)

母も我が家も、壊れ生まれて変化して行く。10年6月25日

23日水曜日。
母の眼科受診日だが、母は行けないので処方箋を貰いに東京北社会保険病院へ行った。
帰りに駅前に出て食材を買った。帰宅すると母の意識がない。ゴロゴロと変な寝息をたてている。出かけはしっかりと「行っておいで。」と見送ってくれたのに、わずか2時間での激変だ。すぐに、生協浮間診療所へ電話を入れ往診を頼んだ。

やって来たのは前日の女医さんとは別の、5月に来てくれた可愛い女医さんだ。医師はすぐに心電図を取り、ペンライトで瞳孔の反応を調べ、丁寧に聴診器をあてた。診察の後、医師は私を部屋の外へ呼び、深刻な顔で言った。
「お母さまは、正直申し上げて、今夜危篤になられてもおかしくない状態です。それでも、在宅をご希望ですか。」
私の決意にゆらぎはなかった。
「危ないのなら、なおさら在宅で看取ります。」
母も同意見だったと答えた。

医師の説明では、母が意識不明になったのは、ナトリウム濃度の低下によるものだ。前日の血液検査ではNa値が低かった。その状態で利尿剤のラシックスを飲ませると、場合によってはNa濃度を更に低下させることがあるようだ。

昨日、女医さんがラシックスを処方すると言ったので、「母はラシックスを飲むと体調が悪くなることがあります。」と伝えた。しかし、「それは時と場合で、今回は適応すると思います。」と医師は反論した。私は専門家に逆らう気はなく、処方通りにラシックスを母に飲ませた。意識がなくなったのはそれから2時間後だった。

母は点滴をされ、見る間に意識を取り戻した。
医師の診断通り、重篤には違いないが、短期間なら母を生き返らせる自信があった。医師が帰るとすぐに、長城清心丸四分の一片を漢方強壮ドリンクで飲ませた。長城清心丸主成分の牛黄は強力な強心作用がある。効果は覿面で、夕方には母は元気になり普通に会話し夕食を食べた。
とは言え、今回だけはいつもと違う予感がした。母が逝くのは今夜かもしれないし、半年先かもしれない。ただ、年末を乗り越えるのは絶望的だ。

24日
診療所の看護婦さんが点滴に来た。母の元気な様子を見て、意外な様子だった。
もし、22日に来た女医さんに従って、母を緊急入院させていたら、今頃はチューブだらけになっていたはずだ。母にコップ一杯の栄養剤を飲ませるにも、誤嚥を避けるため少量ずつ10分以上かかる。食事全体となると、休み休み小1時間はかかる。病院に一人の患者に手間をかけるゆとりはない。結局は点滴とチューブで栄養を摂ることになる。その上、病室に一人で放っておかれて、母は孤独と絶望でボケが進行してしまう。しかし、在宅なら、色々な人が見舞いに来て、母は元気に会話を交わし、ボケの進行は抑えられる。

お昼前、母のことでお金がかかりそうなので銀行へ行った。窓口でしばらく待つと担当に「身分証明をお持ちですか。」と呼ばれた。以前にも同じようなことがあって、次に健康保険証を持って行って手続きした。
「その手続きは済ませています。今回は何故ですか。」
聞くと、登録した"正喜"の字が今回は"喜"の一番上が士になっている、と重箱の隅をつつくような理由だった。
「それは字が乱雑なだけでしょう。書き直せと言えば済むことです。」
反論したが、「今回は認めますが、次回は必ず身分証明証を持って来て下さい。」と、慇懃無礼に言い返された。真相は、いつもより多めに金を下ろしたので怪しんだのだろう。いずれにせよ、世間の常識を外れた銀行特有の対応だった。

窓口と言い争いしている傍らで、賓客らしい初老の男が銀行員と金利のことを事細かく話し続けていた。窓口から離れても、壊れたレコードのように繰り返す強欲な言葉が耳に残った。
「そんなにお金を抱え込んでも、あの世には持って行けないぞ。」
私はつぶやきながら帰路に着いた。

午後、大宮の浜田さんが額と木枠を受け取りに来た。台車で車まで運び、見送ると入れ替わるように介護ベットが届いた。母は車椅子に乗せて、部屋は空にしてある。その代わり隣室はガラクタが山積みになってしまった。

夜、介護ベットの母の上半身を電動で起こした。夜空の月が見えると母は喜んでいた。床ずれ予防の電動エアマットは動いているの動いていないのか分からないほど静かだ。

32年前、父が寝たっきりになった時、祖母の床ずれで苦労したので、スウェーデン製の電動エアマットを買った。その頃は目視できるほどの動きで、父はそれを嫌がり、使うことなく死んだ。後で病院関係者に、当時の電動エアマットは人によつては船酔いすると聞いた。
それに比べると、今の電動エアマットは進化し、寝心地は格段に進化していた。

25日
午前中に、一昨日の可愛い女医さんが往診に来た。
「あら、お元気ですね。」
女医さんは、死んでいたかもしれない老人が受け答えするのが不思議だったようだ。
「先生の処置が良かったようです。あの点滴のあと、とても元気になりました。」
お礼を言うと、医師は少し照れていた。

老人の診断は老練さがいる。それは何千何万と老人を診て来て始めて分かることだ。昔、見放されていた母の肝臓ガンを治療可能と診断した老内科医を思い出しながら、そう思った。

Oboro_2Sinsitu_2Haha上写真。
午後5時。薄雲に淡く太陽が滲んでいた。

中写真。
母の介護ベットと、壁に立てかけた古い手製のベット。
解体して捨てようとしたが、頑丈過ぎるので諦めた。こうやって立てかけると、意外に味わいがある。
ユリはヘルパーのOさんが持って来てくれた。新潟出身の彼女はとても心優しい。

下写真。
母の体調は一日の内で大きく変化する。
この写真の時は、意識が混濁していて、私のことが分からなかった。
薬屋に買い物がある。
しばらく声を掛け続けていると意識が戻り私の名を答えた。
「もっと、何か言えないの。」
言うと母は「バカ。」と答えた。母の憎まれ口は元気になった証拠だ。
「買い物へ行くよ。」と言うと「行っておいで。」と普通に答えた。

昨夜は母の様子を見に起きたついでにテレビを点けた。日本は1-0でデンマークに勝っていた。これでは二度寝ができず、そのまま朝まで見てしまった。

午前6時、母を起こしに行ったが起きてくれない。仕方がないので捨てる予定だったラックの脚を取ってキャスターを付けた。ラックは父が昔買った安物だが、ベニヤなど使ってなく、木組みで繋いだしっかりした作りだ。
母の部屋の昔のソニーのトリニトロン・テレビと、私の部屋のアナログ液晶を交換した。ソニーは25年前のブラウン管式だが、今も良い色味で写る。昔の日本人は実に律儀な仕事をしていた。

今日は母の持ち物を大量に捨てた。母が死んだ後では、捨てられなくなる。しかし、手芸作品だけは捨てられなかった。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

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