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2010年6月27日 (日)

母の終わりは間近、良くも悪くも予想通りには行かない。10年6月27日

昨夜は母の容態が気になって、何度も目覚めて様子を見に行った。

昨日の午前中は車椅子に乗せ携帯用の小型酸素ボンベをつけて玄関前を行ったり来たりした。母は手すりの間から、遠く秩父連山を眺めながら「気持ちいいね、気持ちいいね」と心から笑顔になった。
午後は大型犬の小次郎君とKさんが見舞いに来た。母は喜んで、大きな声で小次郎君を呼んでいた。こんなに喜ぶなら早く会わせてあげればよかったと後悔した。

その後、お隣のYさんに母を頼んで、買い物へ出た。
留守中、母はYさんと言葉を交わせたが、夜になると意識が混濁し、呼びかけに反応しなくなった。息も浅く苦しそうだ。不安になって、老人医療に造詣の深い上越のS先生に電話を入れた。深夜に関わらず、先生は懇切丁寧に、死間際の症状と対策を話された。
数限りなく老人の最期に立ち会った言葉は説得力があった。それによると、死に間際には呼吸も脈拍も無不規則になるようだ。それに照らし合わせると、母の呼吸も脈拍も弱いなりに安定していて、すぐに逝きそうにはなく少し安堵した。

今日は、朝から母の意識は混濁したままで、一度も意識は戻らなかった。水分不足が怖いので、大きな声で目覚めさせ、ポカリスエットを少しずつ飲ませた。

お昼、姉が来た。姉におむつ交換を手伝わせたが手際が悪く殆ど役にたたない。その内、「話しかけても反応がないし、居ても仕方がないから帰るね」と、姉はさっさと帰って行った。
姉はそう言ったが、聴力は最期の間際まで保たれる。
私が耳元で呼びかけると、母は微かに答えてくれる。
「のどが渇いたでしょう」
声をかけながらスポンジに含ませた氷水で口元を濡らすと、少しずつ飲んでくれた。
暑くはないのに、神棚のサカキが枯れてしまった。少し早いが、駅前に買いに行った。途中、顔馴染みに何人も会った。
「お母さんは」
一様に母のことを聞く。手短に、心不全で在宅酸素吸入中で危ない状態だ、と話した。それに対して哀しい顔をされると、耐えていたものが崩れそうで辛い。
帰りは人に会わないように、師団坂を上り東京北社会保険病院の庭を抜けた。ヤマモモが食べごろに熟していたので摘んだ。僅かな時間でたちまちビニール袋が一杯になった。

母の再起は微塵も考えていない。死ぬまで元気でポックリ逝くのが庶民の理想だ。母は理想通りに逝きそうだ。

KumoHaha1_2Haha2_2Haha3Yamamo_2母は献体の白菊会の古い会員だ。
その時のために、献体の書類に目を通した。死亡診断書のコピーに火埋葬許可書。遺族の解剖承諾書。その後のために元気な頃の母の写真を選んだ。

東京では葬儀はしない。博多で70過ぎの兄が小さな八百屋をしている。昔は頼りになる兄だったが、都市化が進むに従って、街はシャッター通りになり店も寂れてしまった。しかし、母の葬儀は引き受けるつもりのようだ。その時は母の遺髪を送って、私は何もしないで過ごしたい。

写真1。出かける時の西の空。

写真2。今日の母。大正2年8月24日生まれの丑年。本人が驚く程に長生きした。

写真3。選んだ写真。94歳の母。赤羽自然観察公園の駐輪場にて。この明るい笑顔は母そのものだ。

写真4。選んだ写真。93歳の母。早春の赤羽自然観察公園にて。この厳しい顔も好きだ。

写真5。ヤマモモの実は塩水に漬けて食べた。今年のは、殊更に甘くて美味しい。

元気な写真を見ていると、喪失感に囚われる。しかし、それはどうしようもない運命だ。もし母が倒れなければ、私が倒れていた。いわば、母は自分の生命維持装置である私を自ら壊してしまった。しかしそうであっても、肉親の情として哀しい。

夜10時、突然に猛烈な眠気に襲われ、椅子に座ったまま15分ほど寝た。
夢の中で、母が笑顔で話しかけていた。
「何だ、元気だったんだ」
そう言っている所で目覚めた。

何かあったのではと、急いで母の様子を見に行くと、呼吸は小刻みで浅く苦しそうだ。点滴で皮下出血だらけの手首の脈を取ったが殆ど触れない。胸に耳をあてると、早い拍動が聞こえた。いつまで母は耐えてくれるのだろうか。もしかすると今夜、私が寝ている間に逝くかもしれない。
「いつも、近くに居るからね」
髪をなでながら話しかけると、母は微かにうなづいた。

祖母は5月1日に死んだ。父は6月1日だ。母に4月1日か7月1日に死んでくれれば、覚えやすいと以前話していた。母は7月1日まで頑張るつもりかもしれないが無理に思える。

最近、母の車椅子の円座がパンクし、デジカメが壊れ始めた。更に、親しくしていたケアマネのAさんが移動になった。総ては母の命に合わせた運命に思えてならない。

母が90歳を迎えた時、大きな肝臓ガンが見つかった。かろうじて手術ができたが、余命は短く感じられた。それで最期を記録しようと、このデジカメを買った。しかし母は7年も延命してしまった。世の中は良くも悪くも、予想通りには行かないものだ。

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