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2010年6月30日 (水)

何も飲まず食べないのに、母が元気なのは終末期だから。10年6月29日

母は朝から食べ物も水も口にしない。吸い飲みで口へ注いだ小さじ一杯の氷水を、苦労しながら飲み込む。そして、後はいらないと首をふる。
水分は、午前中に生協浮間診療所から看護婦さんが来て、抗生剤入りの点滴を200mlほどしただけだ。それでも今日は1日中、意識がはっきりして元気そうに見える。一時的に母の身体の必要量のバランスが取れているからだろう。

通常と終末期の老人では対応が違う。通常なら危険な脱水症を避けるために何とか水分をとらせる。しかし、終末期は本人が望まなければ、無理に飲ませたり食べさせたりしない。水分を無理にとらせると心臓や肺がむくみ負担が増えて辛くなる。水分補給は慎重に医師の判断に従うべきだ。

しかし、このような異常なバランスはすぐに破綻する。
「口から食べている限り、人は死にません」
昔、在宅で祖母と父を看取った時の老医師の言葉を思い出す。終末期に入ってから、老医師は輸液はせずに本人の望み通りにしていた。だから、祖母も父も殆ど苦しむことなく逝った。

今、母は目を開けていながら意識は遠い。それでいて神経は鋭敏で、声をかけるとハッと目覚めて私を見る。脈はまだらで、所々抜ける。すでに、最終段階に入ったようだ。

深夜になっても母は眠らず、壁の一点を凝視していた。
「何が見える」と聞くと
「とても、綺麗」と、母は笑顔になった。
それは臨死体験に登場する、色とりどりの光かもしれない。
だとすると、脳内麻薬のエンドルフィンが放出され、母は多幸感に包まれているはずだ。

母に付き添っていたいが、片付けものがある。母が逝った後では、つまらないものでも捨てられなくなる。だから毎日、母に関わるものを大量に捨てている。

今夜は、母用のトイレ用設置型手摺を分解してベランダに置いた。これは粗大ゴミとして捨てる。手摺が邪魔して掃除ができなかった床の奥を石鹸水で洗った。便器もパイプもピカピカに磨いた。

去年前半から、母は部屋のポータブルトイレを使っていて、トイレを使うことはなかった。それでも手摺を片付けなかったのは、回復の希望を持っていたからだ。

何もしないでいると、哀しみが間歇泉のようにこみ上げる。だから、休みなく動き回っている。食事も立ったままで済ますので、いつ食べたのか記憶に残っていない。役にも立たない老親なのに、なぜこんなに辛いのだろうか。

「お一人でお母さまを看ていて、不安はありませんか」
午前中に点滴に来た、看護婦さんが聞いた。
「逝くと覚悟していますので、不安はありません。今は連日、見舞客が来てにぎやかです。むしろ、逝ってしまった後の方が、世間から忘れられて辛くなりそうです」
そんなことを話すと、看護婦さんは真剣にうなづいていた。この診療所の若い看護婦さんたちは、昔の青春映画に出て来るような優しく健気な人が多い。

Neko_2Yuu_4Haha1上写真。
昨日は母をお隣の吉田さんに頼んで、公団の管理事務所へ行った。

事務所近くで、昼寝をしていたネコ。
カメラをかまえると、「面倒だニャー」と起き上がって、茂みへ入って行った。

管理事務所でエレベーターのトランクルームの鍵を借りた。
母の棺を乗せる時、そのドアを開けると長さが確保できる。
今から借りておかないと、間に合わない。

中写真。
昨日、驟雨が過ぎた後の夕空。

下写真。
午前1時。
様子を見に行くと、母は直ぐに目覚めた。
昨日までは死んだように眠っていて、大きな声で呼んでも、頭を軽く叩いても起きなかったのに、今は神経が鋭敏になっている。それは終末期の特徴だろう。
「苦しい所はないの」
聞くと母は首をふった。十分に生きた高齢者の終末期は痛くも苦しくもないようだ。

母が逝くのは悲しいが、死別後の準備はしなければならない。母も私も世間の好意で生きて来られた。自由になったら、余生は社会に貢献しなければと思っている。


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